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プロフェッサー・ロングヘア(Professor Longhair, 1918年12月19日 - 1980年1月30日)は、ニューオーリンズを代表するブルース・ピアニスト。本名はヘンリー・ローランド・バードといい、フェスの愛称でも知られている。ルイジアナ州ボガルーサ生まれ。ルンバ、マンボ、カリプソを織り交ぜた独特のピアノ・スタイルと感情表現に富んだ個性的なヴォーカルで独自の世界を作り上げている。彼はまた「ロックンロール界のバッハ」などとも呼ばれている。 ==来歴== プロフェッサー・ロングヘアはキャリアの初期となる1930年代、チップを稼ぐためにバーボン・ストリートでタップダンスをして過ごした。やがて彼はギターとピアノを覚え、民間植林治水隊(CCC)の隊員のためにピアノを弾き金を稼ぐようになった。彼が音楽と真剣に向き合うようになったのはこの頃である。また、彼はボクサー、コック、プロのカード師などとしても活動した。 1940年代の末、カレドニア・クラブでデイヴ・バーソロミューのバンドが休憩を取っている間に、彼はピアノを弾き喝采を浴びる。後にファッツ・ドミノのバンドリーダーとして知られるようになるバーソロミューだったが、この結果バンドをクビになってしまった。このときのバンドのメンバーが全員長髪だったため、彼らは「プロフェッサー・ロングヘアとフォーヘアーズ」と呼ばれるようになった。これが彼の芸名の由来である。 1949年、彼は代表曲 "Mardi Gras in New Orleans"など4曲をスター・タレント・レーベルにレコーディングした。「プロフェッサー・ロングヘア&ザ・シャッフリング・ハンガリアンズ」名義のこれらの曲が彼のレコーディング・デビューとなった。"Mardi Gras In New Orleans"は、今日でもこの曲はニューオーリンズの祭典、マルディグラのテーマ曲として知られている。 1950年代には、彼はアトランティック、フェデラル、ロンなどのレーベルにレコーディングを残した。R&Bチャートに登場する全国的なヒットは、"Bald Head"1曲のみだったが、他に"Tipitina"、"Ball the Wall"などいくつかの小ヒットを飛ばしている。 彼は当時、様々な名前で活動していた。ロイ・バード&ヒズ・ブルース・スカラーズ、ロイ“ボールド・ヘッド”バード、ローランド・バード、プロフェッサー・ロングヘア&ヒズ・ブルース・スカラーズ、プロフェッサー・ロングヘア&ザ・クリッパーズなどなど。このように多くの名前を使ったのは、レコード契約上の問題を避けるためであった。 1960年代になると彼の活動は急激に減速し、1964年にウォッチ・レーベルからリリースとなった"Big Chief"がヒットとなった以外は目立った活動はない。彼は半ば引退状態で、再びカード師に戻り、レコード店のゴミ清掃員までやるようになっていた。しかし、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルの企画に携わっていたアリソン・マイナー、クイント・デイヴィスらが彼を1971年のフェスティバルに出演させてから、再び活動を活発化させていった。70年代には彼はいくつかの名作を残しており、またドキュメンタリー「Piano Players Rarely Ever Play Together」にもアラン・トゥーサン、タッツ・ワシントンとともに出演している。 1973年にはモントルー・ジャズ・フェスティバルでヘッドライナーを務めた。また1975年には、ポール・マッカートニーが彼をクイーン・メアリー号船上のプライベート・パーティーに出演させている。 彼は1980年、心臓発作で亡くなり、没後ロックの殿堂入りを果たした。ニューオーリンズの有名なクラブ「ティピティーナス」は彼の曲名から名付けられた。アルバート・ゴールドマンは1978年、彼をティピティーナスでレコーディングしている。(アルバム「Rum And Coke」) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プロフェッサー・ロングヘア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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