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プンタ・スティーロ沖海戦 : ミニ英和和英辞書
プンタ・スティーロ沖海戦[いくさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おき]
 【名詞】 1. open sea 
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

プンタ・スティーロ沖海戦 ( リダイレクト:カラブリア沖海戦 ) : ウィキペディア日本語版
カラブリア沖海戦[からぶりあおきかいせん]
カラブリア沖海戦(カラブリアおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1940年7月9日イタリア半島のつま先であるカラブリア半島沖の東48kmイギリス海軍及びオーストラリア海軍の艦艇からなる連合国艦隊とイタリア海軍の艦隊の間で行われた海戦イギリス側はカラブリア海戦(''Battle of Calabria'')、イタリア側はプンタ・スティーロ海戦(''Battaglia di Punta Stilo'')と呼称した。日本ではカラブリア岬沖海戦、プンタ・スティーロ沖海戦(プンタ・スティロとも)と表記する場合もある。
連合国側の艦隊はマルタからアレクサンドリアへ向かう船団の護衛(MA5作戦)のために、イタリア側の艦隊は北アフリカへ向かう船団護衛のため出撃したものであった。
カラブリア沖海戦は主力艦に撃沈された艦艇はないものの、両軍は多数の艦艇を投入していたため、地中海における主要な海戦として数えられる。両軍は勝利を宣言したが、実質的に引き分けであった。しかし、この海戦以降、イタリア海軍の主力部隊は基地から出撃することを躊躇し、逆にイギリス海軍は積極的な作戦行動を行うようになった。

== 背景 ==
イタリアは多くのヨーロッパ諸国と同様に1941年まで第二次世界大戦は起こらないだろうと予想していた。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻でフランス軍が劣勢になると、イタリアはドイツの成功に乗じ、1940年6月10日にイギリス・フランスに対して宣戦布告、イタリア本土から南フランス、およびリビアからエジプトへ侵攻を開始した。しかしリビアに配備されていたイタリア陸軍は戦闘準備ができておらず、在リビアの陸軍・空軍への補給作戦を実施する必要を迫られた。
7月6日ナポリカターニアから兵員や戦車などを載せた五隻の船団がトリポリ行きを装いつつベンガジへ向けて出発した。護衛には軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ駆逐艦4隻、水雷艇6隻があたる。
一方イギリス軍側では6月のMA3作戦中に発生したエスペロ船団の戦いの結果、マルタから出発するはずであった船団が閉じ込められていた。このためアンドリュー・カニンガム中将率いるイギリス海軍地中海艦隊主力をアレキサンドリアから出撃させ、その護衛のもと非戦闘員などを載せた二つの船団(MF1船団とMS1船団)をマルタからアレキサンドリアへ突破させるという計画が練られた。作戦名はMA5作戦。
イタリア軍情報部はMA5作戦をつかんでいた。さらに、マルタに到着した駆逐艦2隻を巡洋艦と誤認したこともあり、先に上げた直接の護衛部隊以外に艦隊主力を二つに分けて出撃させた。一つ目は重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦16隻で、第2艦隊司令長官リッカルド・パラディーニ中将が率いていた。二つ目は戦艦コンテ・ディ・カブールジュリオ・チェザーレ、軽巡洋艦6隻、駆逐艦20隻で、第1艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ中将が率いていた。
イギリス海軍地中海艦隊は7月7日から8日にかけての夜にアレキサンドリアから出撃した。出撃したのは戦艦1隻ウォースパイトロイヤル・サブリンマレーヤ、空母1隻イーグル、軽巡洋艦5隻、駆逐艦16隻であった。出撃後、駆逐艦インペリアル機関の故障のため引き返した。また、陽動としてサルデーニャ島カリャリ空襲を行うためジェームズ・サマヴィル中将率いるH部隊戦艦ヴァリアントレゾリューション巡洋戦艦フッド、空母アーク・ロイヤル、巡洋艦と駆逐艦13隻)が7月8日にジブラルタルから出撃した。しかし、H部隊は空襲を行わずに引き返し、帰路イタリア潜水艦の雷撃で駆逐艦エスコートを失った。
7月8日、イギリスの潜水艦フェニックスがイタリア艦隊を発見した。これにより、カニンガム大将はイタリア艦隊の出撃を知った。カニンガム中将はマルタからの偵察を命じ、発進した偵察機もイタリア艦隊を発見した。この日、イギリス艦隊はドデカネス諸島からのイタリア軍機による空襲を受けた。この空襲で軽巡洋艦グロスターが艦橋に命中弾を受けた。グロスターは艦長を含む18名の戦死者と9名の負傷者を出したが、予備の指揮所を使用して戦闘を続行した。イタリア艦隊は空襲で連合国艦隊に深刻な打撃を与えたと錯覚し、戦闘の準備に少なからず影響を与えた。イギリス艦隊の動向を知ったカンピオーニ中将は艦隊をイギリス艦隊のほうへ向かわせた。一方、カニンガム中将は艦隊をイタリア艦隊とイタリア本土との間に入るように進ませた。また、この日の夕方にはイタリアの船団が目的地に到着していた。
7月8日の夜に連合国軍はイタリア軍の暗号通信を傍受・解読し、プンタ・スティーロから南東105kmの海上にいた艦隊に通報した。いくつかの情報はイタリア艦隊が戦闘を避けるため反転する可能性を意味し、実際にイタリア艦隊はイタリア空軍の支援を得るために、連合国艦隊をよりイタリア空軍基地に引きつけるべく北上する計画だった。一方でイタリア艦隊は最初の陣形変更中に技量的問題が発生し、何隻かの駆逐艦は燃料の補給のためシチリア島に向かわざるをえなかった。この時点で駆逐艦は計16隻となり、イタリア艦隊はこの戦力減少を受けてタラントに駆逐艦グループの応援を要請した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カラブリア沖海戦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Calabria 」があります。




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