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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 奇襲 : [きしゅう] 1. (n,vs) surprise attack
ヘイヴァーヒル奇襲(ヘイヴァーヒルきしゅう)は、アン女王戦争中の1708年8月29日に起こった戦闘である。ヌーベルフランス、アルゴンキン族、アベナキ族の兵が、ジャン=バティスト・エルテ・ド・ルーヴィユの指揮下、マサチューセッツ湾直轄植民地のヘイヴァーヒル、そして辺境地帯の小さな集落を襲撃したもので、この奇襲によりヘイヴァーヒルの住民16人が殺され、14人から24人が捕虜にされた。襲撃の後民兵の一団がすばやく彼らを追って、小競り合いとなり、フランスとインディアン連合軍の9人が戦死し、捕虜の何人かが逃走した。 奇襲隊の元々の標的はヘイヴァーヒルではなかった。ヌーベルフランス当局は、ピスカタクア川に沿った集落に、もっと大規模なインディアン部隊を送り込み、一連の軍事行動を起こす計画を立てていた。しかし、一部のインディアンがマサチューセッツへの遠征に乗り気でなく、ヌーベルフランスは、目標の範囲をせばめ、より狙いやすい地域を選ぶしか方法がなくなった。1708年の時点では、イギリス領植民地がヌーベルフランスからの襲撃を警戒するよう命じられていたため、1704年にやはりマサチューセッツのディアフィールドで行われた奇襲よりも、こちらのほうが経費がかかった。 ==奇襲に至るまで== 北アメリカのイギリス植民地におけるスペイン継承戦争であるアン女王戦争が1702年に勃発し、これによって、既に緊張状態にあったイギリス領のニューイングランドと、アカディア、そしてカナダの植民地を含むヌーベルフランスとの境界争いが激しくなった。ヌーベルフランスの防御に携わる海兵隊の士官たちは、インディアン部隊を連れて、セントローレンス川の南からニューイングランド北部の辺境地帯をたびたび回っていた。そのニューイングランド北部(現在のマサチューセッツ州北部、ニューハンプシャー州南部、そしてメイン州の地域)には、当時複数の小さな集落があった〔Kingsford, pp. 73–76〕。 この戦争の期間中に、最も効果を上げ、また最も規模が大きかった襲撃は、1704年2月のディアフィールド奇襲だった〔Haefeli and Sweeney, p. 206〕。この奇襲は、約250人の部隊がジャン=バティスト・エルテ・ド・ルーヴィユに率いられており、その多くはインディアンだった。ルーヴィユの奇襲隊は、多くのディアフィールドの人々を殺し、また捕囚してカナダに連行した。この過酷な連行で、たくさんの捕虜が死んだ。その後、生き延びた捕虜はインディアンの集落に引き取られた〔Kingsford, pp. 78–81〕 。マサチューセッツ当局は、この奇襲を受けて、国境を民兵に守らせ〔Haefeli and Sweeney, p. 190〕、報復としてアカディア襲撃に踏み切った〔Drake, p. 193〕。 マサチューセッツのヘイヴァーヒルもやはり1704年に小規模の襲撃を受けていたが、1708年にヌーベルフランス総督のフィリップ・ド・リゴー・ヴォードルイユが起こしたこの奇襲のような、野心に満ちたものではなかった〔Kingsford, p. 92〕。アカディアのポートロワイヤル包囲戦の後、ヴォードルイユは、フランス海軍大臣のポンシャルトラン伯ジェローム・フェリポーに、ニューイングランド植民地に十分な圧力をかけられなかったことを批判された。ヴォードルイユはまた、フランスの影響下にあるインディアンの、ニューヨーク植民地との無許可貿易が増加する傾向にあり、それがヌーベルフランスの経済を逼迫することを懸念していた〔Haefeli and Sweeney, pp. 196–197〕。こういった理由から、ヴォードルイユは、ニューイングランドに、1704年のものよりも、もっと大がかりな奇襲を行うことを決意した〔Haefeli and Sweeney, p. 197〕。 ヴォードルイユの計画は、ピスカタクア川流域のニューハンプシャーの町を、400人もの兵を集めて攻撃するというものであった〔Drake, p. 240〕。この大規模な部隊内での、そして奇襲の対象となる町からの秘密保持のために、奇襲隊はセントローレンスからウィニペサウケ湖に沿って何箇所かに分散し、ウィニペサウケ湖でアベナキ族やペナコック族の部隊と合流するようにした〔Haefeli and Sweeney, p. 198〕。ヌーベルフランスの主力部隊は約100人で、民兵や海兵隊員から構成され、ルーヴィユの指揮の下トロワリビエールを発った。この中には、ディアフィールドの奇襲を経験したものが多く、アベナキ族とニピシング族が同行していた〔。カネサタケから来たイロコイ族220人部隊は、レネ・ブーシェ・ド・ラ・ペリエールの指揮の下、ケベックの近くから来るであろうヒューロン、アベナキとモントリオールを出発する予定だった〔。 大がかりな遠征が計画されていると言う知らせが、インディアンの交易者によってオールバニに届き、更にボストンへと届いた。この遠征の目標がなんであるのかわからなかったため、具体的な防御の準備はほとんどなされなかった。植民地の民兵が、この知らせを受けて40人ばかりヘイヴァーヒルへ派遣された〔Kingsford, p. 93〕〔Chase, p. 217〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘイヴァーヒル奇襲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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