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ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring 、1893年1月12日 ‐ 1946年10月15日)は、ドイツの政治家、軍人。 第一次世界大戦でエースパイロットとして名声を得る。戦後の1922年にヒトラーに惹かれて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。ミュンヘン一揆の失敗で一時亡命生活を送るも、1928年に国会議員に当選し、1932年の選挙でナチ党が第一党となると国会議長に選出された。ナチ党と上流階級の橋渡し役を務めてナチ党の党勢拡大と政権獲得に貢献した。1933年のナチ党政権誕生後にはプロイセン州首相、航空相、ドイツ空軍参謀総長、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相、森林長官、狩猟長官など要職を歴任し、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。しかし政権内では対外穏健派だったため、対外強硬派のヒトラーと徐々に距離ができ、1930年代終わり頃から政治的影響力を低下させはじめた。第二次世界大戦中にドイツ空軍の劣勢が目立つようになると一層存在感を落とした。しかし戦後のニュルンベルク裁判では最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決して注目を集めた。死刑判決後に服毒自殺した。 軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall) である。 == 概要 == 1893年、ドイツ帝国外交官の息子としてバイエルン・ローゼンハイムに生まれる(''→生まれ'')。1900年から母の愛人だった大地主の城に同居するようになり、豪勢な生活の中で育った(''→上流階級の中での育ち'')。1905年からカールスルーエの幼年士官学校に入学し、ついで1909年からに入学。1914年1月に陸軍少尉に任官し、ミュールハウゼン駐留の歩兵連隊に配属された(''→幼年士官学校'')。 同年7月から8月に勃発した第一次世界大戦では 初め陸上部隊を指揮してミュールハウゼン防衛戦で戦ったが、まもなく病を罹患して戦線から離脱(''→陸軍将校としての初戦'')。回復後の同年10月から陸軍へ移籍し、偵察機の観測員となる(''→航空隊移籍、観測員としての活躍'')。ついで1915年9月から戦闘機パイロットとなる。撃墜スコアを伸ばし、1917年5月に指揮官に任じられる。1917年代からはエースパイロットの一人として広く認知されるようになり、1918年6月にはプール・ル・メリット勲章を受勲した(''→エースパイロット'')。1918年7月には「リヒトホーフェン大隊」指揮官に任じられた。ウーデットはじめエースぞろいの部隊をよくまとめ上げ、苦しい戦況の中で最後まで戦い抜いたが、同年11月に敗戦を迎えた(''→リヒトホーフェン大隊指揮官'')。 戦後ミュンヘンへ帰り、右派の政治運動に名を連ねたが、1919年2月に共産党によるミュンヘン・レーテ共和国樹立があり、身の危険を感じてミュンヘンを脱出した(''→ミュンヘン・レーテ共和国をめぐって'')。その後デンマークやスウェーデンに活躍の場を移し、曲芸飛行士として人気を博した(''→北欧で曲芸飛行士'')。 1921年夏にドイツへ帰国し、1922年から1923年にかけてミュンヘン大学に在学。1922年にナチ党党首ヒトラーの演説を初めて見、彼に魅了されて同党へ入党。一次大戦の英雄の経歴から重用され、入党後ただちに突撃隊最高指導者に任じられた(''→ナチ党への入党'')。1923年のミュンヘン一揆では突撃隊を率いて参加したが、一揆は失敗し、腰に銃弾を受けてオーストリアへ国外亡命した(''→ミュンヘン一揆'')。銃弾摘出の手術でモルヒネが使われ、以降モルヒネ依存症となる。ナチ党の再建運動にも参加できず、妻カリンの実家のあるスウェーデンで失意の日々を送った(''→亡命生活'')。 1927年秋にドイツ国会で政治犯の恩赦が可決されたため帰国(''→恩赦で帰国'')。1928年の国会総選挙でナチ党候補者名簿の最上位に乗せられ、国会議員に当選。ナチ党議員団の長となる。社交界でナチ党と上流階級の橋渡し役を務め、大企業から企業献金を取りつけた。以降ナチ党は積極的な選挙活動を打てるようになり、議席を急速に伸ばし、1932年7月の総選挙では第一党となる(''→国会議員'')。1932年8月にはゲーリングが国会議長に選出された。パーペン内閣に協力しないとのヒトラーの方針に従って、国会議長としての政府への協力を拒否した。しかしやがてナチ党の政治資金が尽き、1932年11月の総選挙、12月のチューリンゲン州議会選挙はナチ党が敗北。弱気になるヒトラーを説得して非妥協路線に戻し、シュライヒャー内閣との妥協路線に転じていたグレゴール・シュトラッサーを失脚に追い込んだ。その後ヒンデンブルク大統領の説得に尽力するなどヒトラー首相任命の下地作りに貢献した(''→国会議長'')。 1933年1月30日に成立したヒトラー内閣には無任所大臣として入閣(''→ヒトラー内閣成立'')。またプロイセン州内相(後プロイセン州首相)に就任し、警察署長をナチ党員にすげ替えたり、突撃隊や親衛隊を補助警察として採用したり、ディールスのもとにゲシュタポを創設するなどプロイセン警察のナチ化を進めた、2月28日の国会議事堂放火事件でオランダ人共産主義者が逮捕されると共産主義者全体の国際連帯によるテロ事件と断定して左翼を次々と検挙した。無法な取り扱いが多い突撃隊の私設収容所を憂慮し、これを一掃して州公認の強制収容所を設置し、政治犯はそこに収容することとした。突撃隊との対立が深まる中、プロイセン州以外の警察を支配下に収めていた親衛隊との連携を模索し、1934年4月には親衛隊にゲシュタポ指揮権を譲った(''→プロイセン州統治'')。1934年6月末から7月初旬の長いナイフの夜事件では親衛隊とともに粛清に主導的役割を果たした。彼は粛清対象をナチ党内や突撃隊に限定したがり、親衛隊によるナチ党外への粛清拡大には慎重だった。パーペン副首相など危ぶまれていた非ナチ党の高官たちを庇護した(''→長いナイフの夜'')。 1933年5月より航空相、1935年3月より空軍総司令官となり、ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の再建に中心的役割を果たした。ウーデットが推す急降下爆撃や短距離中距離爆撃機を重視する航空機生産を行わせた。これは第二次世界大戦前半の対ポーランド戦や西方電撃戦で大きな成功につながった反面、バトル・オブ・ブリテンの敗退につながったと評価される。1936年からスペイン内戦にドイツ空軍を「コンドル軍団」として非公式参戦させ、新型機実験場として活用した(''→空軍総司令官として'')。 1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、都市部のグリーンベルト設置を推進して自然保護に尽くし、また狩猟法制定で狩猟のルールを定めて動物保護に尽力した(''→動物・自然保護への功績'')。1936年8月には四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、経済にも責任を負った。戦争に耐えうる経済の確立に努めた。また水晶の夜事件後には強制的アーリア化を推進し、ユダヤ人を経済活動から排斥した(''→経済における活動'')。外交面では対英穏健派であり、対英強硬派のリッベントロップを嫌った。1938年9月のミュンヘン会談の成功に尽力したが、対外強硬姿勢を強めるヒトラーから徐々に疑念を持たれるようになり、この頃から政治的影響力を落とした。1939年3月のチェコスロバキア解体では政策決定から外されていた。この件でイギリスの態度が硬化したことを憂慮し、8月にはスウェーデン人実業家を通じてイギリスと交渉にあたったが、実を結ばなかった(''→外交における活動'')。 彼は国民人気が高く、政策決定力が落ちた後でもヒトラーから重視され、開戦に際して総統後継者に指名されている(''→ヒトラーの後継者'')。 1939年9月の対ポーランド戦、1940年5月からの西方電撃戦でゲーリング率いる空軍は爆撃で陸軍の進撃を助け、電撃戦の一翼を担った。対仏勝利後の1940年7月に国家元帥に叙された(''→ポーランド戦、→西方電撃戦'')。つづくバトル・オブ・ブリテンでは航空施設爆撃の継続を主張したが、ヒトラーに押し切られてロンドン空襲に切り替えた。その結果損害が増して英国本土の制空権を握れる見込みは無くなった(''→バトルオブブリテン'')。ヒトラーが独ソ戦を検討していることを知ると二正面作戦への反対を具申したが、ヒトラーに押し切られて結局賛同した。1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦でドイツ空軍は初戦こそ大戦果を挙げたが、やがて進撃は行き詰まった。1942年から1943年にかけては、スターリングラード攻防戦で無謀な空輸作戦を行って失敗し、その権威を大きく失墜させた(''→独ソ戦'')。1942年から英米軍によるドイツ各都市への空襲が激しくなり、1943年7月のハンブルク空襲を機に彼は爆撃機より防空のため戦闘機増強に力を入れるべきとの方針を宣言したが、守勢に転じることを嫌がるヒトラーに退けられた。また彼は夜間戦闘機に不熱心だった。結果ドイツの防空体制はお粗末な物となり、空襲被害はますます甚大となった。日々冷遇されていく彼は、空軍の指揮をミルヒに任せて美術品収集など趣味の世界に没頭していった。それでも空襲被災地の視察などでは市民からの人気は衰えていない様子だったという(''→英米の空襲'')。1945年4月23日、オーバーザルツベルクで「総統が自決の意思を固め、連合国との和平交渉はゲーリングに任せるつもりである」という情報を聞いた彼は、ヒトラーに自分に国家指揮権を移譲する意思はあるか問う電報を送った。官房長官ボルマンはこれを「ゲーリングの反逆」とヒトラーに讒言し、ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。さらにボルマンの独断で親衛隊部隊に逮捕命令が出されて一時監禁されたが、ヒトラー自殺後に親衛隊はゲーリングを解放した(''→「反逆」、→解任と逮捕'')。 5月に自ら米軍の捕虜となり、四か月ほどルクセンブルク・で拘留された(''→米軍の捕虜に'')。1945年9月にニュルンベルクへ移送され、11月から開廷したニュルンベルク裁判の最主要被告人となった。法廷ではヒトラーとナチスを雄弁に擁護し、検察が追及する「侵略戦争の共同謀議」や「ユダヤ人絶滅政策」などの容疑を否認した。アメリカ首席検事ジャクソンらと激闘を繰り広げて人々の注目を集めたが、1946年9月の判決で絞首刑判決を受けた(''→ニュルンベルク裁判'')。死刑方法を銃殺刑に変更するよう嘆願するも拒否されたことを不服とし、死刑執行直前の1946年10月15日に独房内で服毒自殺した(''→自殺'')。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘルマン・ゲーリング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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