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ヘクター・ゲレロ : ミニ英和和英辞書
ヘクター・ゲレロ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘクター・ゲレロ : ウィキペディア日本語版
ヘクター・ゲレロ[ちょうおん]

ヘクター・ゲレロHector Guerrero1954年10月1日 - )は、メキシコシティ出身の元プロレスラー。本名はエクトル・マヌエル・ゲレーロ・ジャネスHéctor Manuel Guerrero Llanes)。生年は1957年ともされていた〔『THE WRESTLER BEST 1000』P223(1996年、日本スポーツ出版社)〕〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P52(2002年、日本スポーツ出版社)〕。
メキシコおよびアメリカで活躍した名門ゲレロ・ファミリーの一員。父のゴリー・ゲレロ、兄のチャボ・ゲレロ・シニアとマンド・ゲレロ、弟のエディ・ゲレロ、甥のチャボ・ゲレロ・ジュニアもプロレスラーである。
== 来歴 ==
少年時代にファミリーでアメリカ合衆国テキサス州エル・パソに移住し、テキサス大学エル・パソ校に進学して体育の学士号を取得。1973年メキシコでプロレスラーとしてデビューした後、1970年代後半より兄のチャボ・ゲレロも主戦場としていたカリフォルニア州ロサンゼルスNWAハリウッド・レスリングにて活動する。
1978年1月13日にチャボと組んでブラック・ゴードマン&エル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取し、同年2月10日にはマスクド・カナディアンを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得。1978年1月13日に開催された同地区のニューイヤー恒例のバトルロイヤルでは、アンドレ・ザ・ジャイアント、チャボ・ゲレロ、マスクド・カナディアン、藤波辰巳ロン・バスディーン・ホービクター・リベラムーンドッグ・メインなどの参加選手を抑え優勝を飾っている。
1979年1月、新日本プロレスに初来日。ボブ・ループジョニー・パワーズクルト・フォン・ヘスなどのベテラン勢に混じって、藤波辰巳を相手に好勝負を繰り広げた〔。以降、テネシーオクラホマフロリダなど南部を転戦しつつ、プロレス人気が下火となっていたロサンゼルスにも継続的に出場を続け、1982年7月9日にはマンド・ゲレロと組んでミスター・トヨ&ミスター・ゴーの日本人コンビを破り、アメリカス・タッグ王座への6度目の戴冠を果たした〔。
1983年4月には全日本プロレスに初登場し、大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。翌1984年7月13日、ロサンゼルスにて空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座の新王者に認定され、翌日の14日にはフロリダにてチャボとのコンビでバリー・ウインダム&マイク・ロトンドからUSタッグ王座を奪取した。8月にはチャボと共に全日本プロレスに再来日している。以後もフロリダで活動し、1985年8月28日にはジェシー・バーを下してNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得した
1986年よりジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦し、同じメキシコ系のマニー・フェルナンデスとのタッグチームを経て、レーザートロンLazer-Tron)なる覆面レスラーに変身。空中技を主体とした試合スタイルで子供の観客からの支持を集め、1987年3月7日にはNWA世界ジュニアヘビー級王座に再び戴冠〔。同じく子供に人気のあったジミー・バリアントともタッグを組み、ミッドカード戦線で活躍した。NWA離脱後は素顔に戻り、1987年10月19日にテネシー州メンフィスにて、ドクター・D(カール・コバック)をパートナーにジェリー・ローラー&ビル・ダンディーからAWA世界タッグ王座を奪取している。
その後1990年11月22日、七面鳥着ぐるみをまとったゴブリディ・グッカーGobbledy Gooker)に扮してWWFの『サバイバー・シリーズ1990』に登場。当日はミーン・ジーン・オーカーランドとダンスを踊ったが試合には出場せず、ココ・B・ウェアザ・ブッシュワッカーズとのプロモーション・クリップも製作されたものの、以降登場することはなかった(このキャラクターは、プロレス史上に残るワースト・ギミックとされている〔)。
セミリタイア後の1990年代はエル・パソのハイスクールでレスリングのコーチに携わりつつ〔、各団体に単発的に出場。1995年ECWにて2・コールド・スコーピオのTV王座に挑戦。1997年7月にはWCWに登場し、弟のエディ・ゲレロディーン・マレンコと対戦した〔。1998年5月22日には、エディとのコンビでノースカロライナのインディー団体PWFのタッグ王座を獲得している〔。
2001年はWWFでゴブリディ・グッカーのギミックを10年ぶりに復活させ、4月1日開催の『レッスルマニアX-Seven』で行われたギミック・バトルロイヤルに出場。2005年11月13日に死去したエディ・ゲレロが2006年WWE殿堂に迎えられた際も、チャボやマンドと共に式典に出席した。
2007年3月、スペイン語カラー・コメンテーター兼任のロード・エージェントとしてTNAと契約。2008年5月からはホミサイド&ヘルナンデスのラテン・アメリカン・エクスチェンジ(LAX)のマネージャーとなり、チーム3Dビアマネー・インクとの抗争を指揮した〔。同年9月25日の『TNAインパクト』にてLAXがビアマネー・インクに敗れ、マネージャーの資格を失ってからはコメンテーターに復帰している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘクター・ゲレロ」の詳細全文を読む




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