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山田 伝(やまだ でん、1914年2月5日 - 1987年5月12日)は、昭和初期(1930年代-1940年代)のプロ野球選手(外野手)。 == 来歴 == 和歌山県日高郡切目川村生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント出身の日系二世〔『プロ野球人名事典』516頁〕。 エリグローブ高卒業後〔、アメリカのノンプロ球団「スタクトン」を経て、セミプロ球団「アラメダ」に入団。1937年に同球団の日本遠征で来日したところをスカウトされ、同年阪急に入団した〔。 戦争でも帰国しなかったことから、戦時中断を挟んで、1番・中堅手として秋〜までほぼフル出場する。には個人打撃成績5位の打率.272を挙げてベストナインを獲得。その後もまで5年連続で打撃成績10位以内に入り、特には打率.250(リーグ4位)、は打率.272(リーグ2位)の好成績を残した。また、と1943年の二度盗塁王になっているが、1943年に記録した56盗塁は戦前のシーズン最多記録である(戦後、に南海の河西俊雄が66盗塁で更新)。 左投げながら、二塁手として通算6試合出場している(1939年3試合、1940年2試合、1942年1試合)。また、1940年には投手として1勝を記録しているが、4月6日に挙げたその1勝は、対南海戦にて32-2で圧勝、現在も最多得点、最多得点差のプロ野球記録に残っている試合で完投勝利したものだった。 引退後、阪神の通訳兼スコアラーとなり、〜,,は守備走塁コーチも務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田伝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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