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ヘッドオブパッシーズの海戦 : ミニ英和和英辞書
ヘッドオブパッシーズの海戦[へっどおぶぱっしーずのかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ヘッドオブパッシーズの海戦 : ウィキペディア日本語版
ヘッドオブパッシーズの海戦[へっどおぶぱっしーずのかいせん]

ヘッドオブパッシーズの海戦()は、南北戦争開戦から半年の1861年10月12日に、ルイジアナ州プラークミンズ郡ミシシッピ川デルタの先端近くで起こった海戦である。地元メディアから「モスキート艦隊」とも呼ばれたアメリカ連合国海軍のミシシッピ川防衛艦隊が、ヘッドオブパッシーズで停泊していた北軍海軍の封鎖戦隊を襲った。このモスキート艦隊には3隻の火船用筏が付いており、火を点けられ、装甲衝角艦CSS''マナサス''の後から戦闘に加わった。攻撃は10月12日早朝の月の入り後に始まり、北軍戦隊を潰走させた。北軍は算を乱してデルタの南西水路から逃げて行った。日の出後、南軍の海軍准将ジョージ・N・ホリンズはモスキート艦隊に上流に戻るよう命令を出した。
== 背景 ==
ルイジアナ州は1861年1月26日にアメリカ合衆国から脱退した。2月21日には新設されたアメリカ連合国が海軍を設立した。アメリカ連合国海軍長官スティーヴン・マロリーがローレンス・ルソー海軍准将をニューオーリンズに派遣して海の防衛を監督させた。しかしその動きは、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスによって損なわれることになった。デイヴィスは新しいアメリカ連合国の一般大衆に私掠免許を配ることを承認した。この免許を持っておれば、北軍の船を捕まえてアメリカ連合国政府から報奨金を得ることができ、ルイジアナの海に浮かんでいるものなら何でも、利益を期待する民間投資家が捕まえるられることを保証するものだった。ルソーは、それ以前にルイジアナの主要輸出品だった綿花をアメリカ連合国が禁輸措置にしたことで失われた収入を、取り戻そうと熱心な市民の後であたふたとするだけだった。ルソーは民間の川船6隻を買収して間に合わせの海軍に転換しただけだった。マロリーはこの不運なルソーに換えて、元アメリカ海軍のベテラン、ジョージ・N・ホリンズを起用して准将に任命し、1861年7月31日にニューオーリンズに派遣した。ホリンズは6隻の武装川船の場当たり的な集団を編成し、それを「モスキート艦隊」と名付けた。その動きはマロリーの装甲艦プロジェクトで邪魔された。マロリーはCSS''ルイジアナ''とCSS''ミシシッピ''という強力な装甲艦2隻を建造しようとしていた。このプロジェクトやマロリーが承認した他のプロジェクトは、モスキート艦隊にとってより多くの艦船を建造するために有用な資源の大半を使ってしまうことだった。マロリーはポンチャートレイン湖で任務に就く民間船2隻を購入できた。ホリンズはマロリーから支援を得られないままに、ニューオーリンズの防衛指揮については他の誰かと競合することになる可能性があった〔Hearn, ''Capture of New Orleans, 1862,'' pp. 67-80.〕。
北軍海軍の方は、指揮系統と運営がより集中された形になっていた。サムター砦で南北戦争が始まり、海軍の行動が必然となると、従来からのスタッフや命令系統が時を移さず構築された。ウィンフィールド・スコット将軍が海上封鎖戦略を打ち出し、1861年4月19日にはエイブラハム・リンカーン大統領が封鎖宣言を出した。5月27日にUSS''ブルックリン''がミシシッピ川デルタのアウターパスに到着し、封鎖が始まった。4月30日にはUSS''ポウハタン''が南西パス沖に到着していた。これら艦船の到着時期はニューオーリンズの住民が予測していたよりも早く、中立の船舶は港から出て行くために15日間の猶予を与えられたときに恐慌状態となり、通常通りの事業という概念に反する現実が突きつけられた形になった。USS''ナイアガラ''とUSS''ミネソタ''が到着して、封鎖はより確固たるものになった。''ナイアガラ''に乗艦していたのはウィリアム・W・マッキーン海軍大佐であり、ミシシッピ川封鎖戦隊の新しい指揮官だった。1861年10月10日、マッキーンは北軍艦船4隻にヘッドオブパッシーズを占領し、デルタ下流の出口を1か所で閉鎖するよう命じた〔Hearn, ''Capture of New Orleans, 1862,'' pp. 32-43.〕。
ホリンズ准将にとっては時間が足りなかった。北軍艦隊がヘッドオブパッシーズの根元を占領するという見込みは耐えがたいものだった。そこは、ニューオーリンズにとって最後の防衛線であるジャクソン砦やセントフィリップ砦に攻撃を掛けるために都合の良い場所だった。これに反応したホリンズは旗艦のCSS'' カルフーン''に乗艦し、ニューオーリンズから南に動きジャクソン砦でモスキート艦隊を集合させた。そこに着くと、CSS''マクレイ''にアレクサンダー・F・ウォーリー海軍大佐の指揮する乗員を載せて派遣し、私掠船で装甲衝角艦''マナサス''をアメリカ連合国海軍のために無理やり徴発させた。その私掠船所有者の代表であるジョン・A・スティーブンソンは、その船が支配下から奪われることに衝撃を受けて、涙ながらに船を離れた。ホリンズは、自分のモスキート艦隊が、より大きな北軍封鎖戦隊の艦船に対しても幾らか対抗できる戦力になったので、冷静だった。10月12日の月の入り後の早朝、その艦隊を擁してヘッドオブパッシーズで北軍戦隊と対抗するために南に向かった〔Hearn, ''Capture of New Orleans, 1862,'' pp. 84-5.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘッドオブパッシーズの海戦」の詳細全文を読む




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