翻訳と辞書
Words near each other
・ ヘドラ
・ ヘドラをやっつけろ
・ ヘドラーの山
・ ヘドリー
・ ヘドリー・ブル
・ ヘドル・ナッシュ
・ ヘドレ
・ ヘドロ
・ ヘドヴィガ・ローゼンバウモワ
・ ヘドヴィグ・カラカス
ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ
・ ヘドヴィヘス・マドゥロ
・ ヘドヴィヘス・マドゥーロ
・ ヘド・ターコルー
・ ヘナ
・ ヘナウケ
・ ヘナウケの戦い
・ ヘナタリ
・ ヘナタリガイ
・ ヘナチョコ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ : ミニ英和和英辞書
ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ : ウィキペディア日本語版
ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ[ちょうおん]

ヘドヴィグ・ソフィア・アウグスタ・アヴ・スヴェーリエHedvig Sofia Augusta av Sverige, 1681年6月26日ストックホルム - 1708年12月22日、ストックホルム)は、スウェーデンカール11世とその妃でデンマーク=ノルウェーフレゼリク3世の娘であるウルリカ・エレオノーラの間の第1子、長女。カール12世ウルリカ・エレオノーラ女王の姉。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプフレゼリク4世と結婚した。
== 生涯 ==
ソフィアは母の死後、弟妹達と一緒に父方の祖母のヘートヴィヒ・エレオノーラの手許で育てられ、祖母から強烈な反デンマーク感情を植えつけられた。1698年5月12日カールベリ宮殿において、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フレゼリク4世と結婚した。ソフィアとフレゼリク4世は母親同士が姉妹の従兄妹同士で、フレゼリク4世はヘートヴィヒ・エレオノーラの甥でもあった。この政略結婚はスウェーデンの伝統的な反デンマーク・親ホルシュタイン=ゴットルプ政策の一環だった。
公爵夫人ソフィアは、1700年大北方戦争が始まるまでの数年間、弟カール12世の宮廷を覆っていた遊興三昧の雰囲気の中で、パーティーにうつつを抜かして過ごした。ソフィアは生涯の大半をスウェーデン宮廷で送り、1699年から約1年間は夫の領国ゴットープ(現在のドイツゴットルフ)で暮らしたが、1700年に戦争がはじまると母国に帰りカールベリ宮殿を主な住まいとしていた。帰国した1700年の春、ソフィアは一人息子のカール・フリードリヒ(1700年 - 1739年)を出産した。
1702年に夫と死別すると、ソフィアはゴットルプ公爵位を継いだ幼い息子カール・フリードリヒの摂政に就任した。とはいえ彼女の生活の中心はあくまでスウェーデン宮廷であり、夫の領国を訪れることはめったに無かった。彼女は公国の瑣末な行政は亡夫の弟のリューベック司教クリスティアン・アウグストに任せていたが、重要な政治決定に関しては自分の承認を得させてから行わせた。
スウェーデンでは、ソフィアは息子を子供のない弟カール12世の後継者にしようと目論見、ソフィアを指導者とする「ホルシュタイン派」は、彼女が1708年に亡くなるまではストックホルム宮廷で最も勢力を誇っていた。ソフィアはハノーファー選帝侯世子ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)など、持ち込まれる再婚の縁談を全て断り、オーロフ・ギレンボリ(Olof Gyllenborg)という青年貴族との恋愛を楽しんだが、祖母ヘートヴィヒ・エレオノーラはこの情事に立腹していた。
ソフィアは優れたファッション・センスを持つ美しい王女で弟カール12世と非常に親密でもあり、カール12世は姉の死に大きな衝撃を受けた。ソフィアの遺骸は1718年にカール12世が死ぬまで埋葬されていなかったという。カール12世の死後、ソフィアの息子カール・フリードリヒがスウェーデン王に擁立されるはずだったが、ソフィアとカール12世の妹で「ヘッセン派」の推すウルリカ・エレオノーラが先手を打ち、早々と王位を継承した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.