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ヘルマン・フォン・ザルツァ(Hermann von Salza、1165年 - 1239年3月20日)は、ドイツ騎士団第4代総長(在位:1209年〔ハインペル『人間とその現在 ヨーロッパの歴史意識』、105頁〕〔阿部『ドイツ中世後期の世界 ドイツ騎士修道会史の研究』、61頁〕/10年〔山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、154頁〕 - 1239年)。 神聖ローマ帝国とローマ教皇の両方と繋がりを持つ優れた外交官であり、騎士修道会のプロイセン地方への東方植民を監督した。困難をはねのけてプロイセンに拠点を築いた人物であり、後世の人間からは「13世紀のビスマルク」「中世最大のドイツ人政治家」と評価されている〔。 == 生涯 == === ドイツ騎士団入団まで === ヘルマンはテューリンゲン方伯に仕えるミニステリアーレの一家の出身であり〔〔、で生まれたと思われる。 テューリンゲン方伯とともに1189年から1191年にかけてのアッコン包囲(en)に参加した。また、アッコン包囲が行われていた時、ドイツ騎士団の前身である野戦病院が設立された〔池上俊一『図説 騎士の世界』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2012年2月)、33頁〕。 1197年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が実施した十字軍にはテューリンゲン方伯ヘルマン1世とヘンネベルク伯オットーとともに参加し、エルサレム王の戴冠式に同席した。ハインリヒ6世の死によって十字軍が中止され、アッコンが陥落した後、ドイツ騎士団の前身である野戦病院は存立の危機に陥った〔山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、153-154頁〕。野戦病院は総長ハインリヒ・ワルポット・バッセンハイムの元で聖地奪還の拠点を確立するべく、軍事集団として目的を新たに再建される〔。1198年、ヘルマンは役割を新たにしたドイツ騎士団に入団する〔。 総長就任後、数年の間は地中海方面で活動し、騎士団の活動範囲はイベリア半島からバルト海方面のリヴォニアにまで広がった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘルマン・フォン・ザルツァ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hermann von Salza 」があります。 スポンサード リンク
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