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ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse, 1877年7月2日 - 1962年8月9日)は、ドイツの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である。 南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を画いた作品が多い。また、ヘッセは、風景や蝶々などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行している。そして、1946年、彼は、『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、ノーベル文学賞を受賞した。 == 生涯 == 1877年、ヘッセは、ドイツ南部ヴュルテンベルク王国のカルフに生まれる。 ヘッセ家は、エストニアのバルト・ドイツ人の家系である。ヘッセの父親は、その名をカール・オットー・ヨハネスといい、スイス・バーゼルの宣教師であった。カールは、ヘッセの祖父カール・ヘルマン・ヘッセと祖母イェニー・ラスとの間に生まれた五男であった。そして、カールは、インド生まれのマリー・グンデルト(スイス系ドイツ人の宣教師ヘルマン・グンデルトの娘で、母方の従弟にヴィルヘルム・グンデルトがいる)との間に4人の子供をもうけた。ヘルマンは、その2人目の子供である〔Karl Otto Johannes Hesse-カール・オットー・ヨハネス・ヘッセ 〕。 7歳の頃、ヘッセは、父の伝手で、新島襄に会っている。難関とされるヴュルテンベルク州立学校の試験に合格し、14歳のときにマウルブロン神学校に入学する。しかし、半年で脱走してしまう。ヘッセは、両親の知り合いの牧師から悪魔払いを受けるが、効果はなかった。その後、ヘッセは、自殺未遂を図ったため、シュテッテン神経科病院に入院する。退院後に、ヘッセは、カンシュタットのギムナジウムに入学するが、その学校も退学してしまう。それから、本屋の見習い店員となるが、3日で脱走する。当時の経験は、『車輪の下』原体験となっていると言われる。 その後、さまざまな職に就きながら、作品を発表する。その頃、ヘッセは、テュービンゲンの本屋で店員をしていた。その話は、ヘッセが作家として成功を収めてから有名になった。そのため、その店には、ヘッセの作品のコーナーが作られたそうである。1904年、27歳のときに、ヘッセは、マリア・ベルニリという女性と結婚し、次男のハイナー・ヘルマンを含む3人の子供をもうける。この頃のヘッセの作品は、ノスタルジックな雰囲気の漂う牧歌的な作品が多い。これらの作品が描く世界は、ある意味では、一つの価値観に基づいた予定調和の世界となっている。 しかし、1919年の『デミアン』執筆前後から作風は一変する。この頃、第一次大戦の影響などもあり、ヘッセは深い精神的危機を経験する。ティチーノ州のモンタニョーラという小さな村に落ち着き、カール・グスタフ・ユングの弟子たちの助けを借りながら、精神の回復を遂げる。そのなかで、ヘッセの深い精神世界を描いた作品が、『デミアン』である。それ以降の作品には、現代文明への強烈な批判と洞察、精神的な問題点などが多く描かれており、ヘッセをドイツ文学を代表する作家に押し上げた。 1924年、ヘッセは、ルート・ヴェンガーという女性と結婚したが、3年後に離婚した。また、1931年には、アシュケナジム・ユダヤ人のニノン・アウスレンダー(旧姓ドルビン)という女性と結婚する。なお、ヘッセとニノンは、長年の間、文通をしていたそうである。 平和主義を唱えていたヘッセは、自分の祖国であるドイツにヒトラー政権が誕生すると、ドイツを離れ、スイスで執筆活動を始める。当時、ヘッセの作品は、ナチス政権から「時代に好ましくない」レッテルを貼られて、ドイツ国内で紙の割り当てを禁止されていた。 1946年、ヘッセは、ノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞する。また、翌年、生まれ故郷のカルフ市の名誉市民となる。同年、アンドレ・ジッドの訪問を受ける。1962年、85歳のとき、ヘッセは、43年間を過ごしたモンタニョーラの自宅で死去し、聖アボンディオ教会に葬られる。自分が生まれたカルフと2番目の妻と暮らしたボーデン湖畔のガイエンホーフェン、そして3番目の妻ニノンと長年住んだアルプス南麓の村モンタニョーラには、ヘッセの業績を記念して作られたヘッセ博物館がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘルマン・ヘッセ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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