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ヘルムート・シュミット : ミニ英和和英辞書
ヘルムート・シュミット[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘルムート・シュミット : ウィキペディア日本語版
ヘルムート・シュミット[ちょうおん]

ヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・シュミット(、1918年12月23日 - 2015年11月10日)は、西ドイツ政治家ドイツ社会民主党 (SPD) 所属。第5代連邦首相(在任:1974年 - 1982年)。その他国防相(1969年 - 1972年)、経済財務相(1972年)、財務相(1972年 - 1974年)、外務大臣(臨時、1982年の2週間)を歴任。1983年からは『ディー・ツァイト』紙の共同編集者を務める言論人・文化人でもある。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
ハンブルクの生まれでそのことに誇りを持ち、現在はハンブルク市民に「卓越したハンザ人」と敬愛されている。両親はいずれも教師だった。しかし父はユダヤ教徒の商人と女性給仕の間に生まれた私生児で、ナチスの政権獲得後にユダヤ人に対する差別と迫害が始まると、父は書類を偽造してアーリア人である証明書を得た、とシュミット自身が告白している。その出自ゆえにナチスに対する反感は持っていたが、ナチス左派が宣伝した社会主義的側面には共感するところもあったという。
1937年にハンブルクのリヒトヴァルク高校を卒業した後、1939年に兵役でドイツ国防軍に入隊し、ブレーメン対空砲部隊に配属された。間もなく第二次世界大戦が勃発。1941年からは東部戦線ソ連軍との戦いに将校として従軍。1942年帝国空軍省の対空砲教官兼顧問としてドイツに戻った。1944年、ヒトラー暗殺計画参加者に対する人民法廷の裁判を傍聴するよう上官に命じられたが、その茶番ぶりに傍聴を辞退した。同年末、中尉・中隊長として西部戦線に従軍。1945年初め、防空演習中に空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに対する批判的な言動をしたためにナチスの政治将校に裁判にかけられそうになるが、上官の将軍に救われた。1945年4月にリューネブルガー・ハイデイギリス軍の捕虜となり、8月31日に釈放された。
捕虜収容所からの釈放後、ハンブルク大学経済学政治学を学び、収容所で知り合った社会主義者の影響で戦後すぐにSPDに入党。在学中の1947 - 1948年、SPDの下部学生組織であるドイツ社会主義学生連盟 (Der :de:Sozialistische Deutsche Studentenbund; SDS) のリーダーを務めた。1949年にハンブルク大学から経済学士号を取得。卒業後ハンブルク市の自治体職員となり、まず商工振興局で、その後1952年から同市の経済・運輸局で、その長であるカール・シラー(:de:Karl Schiller)の下で働いた。1955年のドイツ再軍備後に二度軍事訓練に参加し、1958年にはドイツ連邦軍予備役大尉、のち予備役少佐になっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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