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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヘルムート・ヴァルヒャ(, 1907年10月27日 ライプツィヒ – 1991年8月11日 フランクフルト・アム・マイン)は、旧西ドイツのチェンバロ・オルガン奏者。オランダとドイツのバロック音楽を専門として、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガン曲選集を2度録音した(1947年-1952年のモノラル録音と、1956年-1970年のステレオ録音)。'', 1907年10月27日 ライプツィヒ – 1991年8月11日 フランクフルト・アム・マイン)は、旧西ドイツのチェンバロ・オルガン奏者。オランダとドイツのバロック音楽を専門として、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガン曲選集を2度録音した(1947年-1952年のモノラル録音と、1956年-1970年のステレオ録音)。 == 生涯 == 郵便局に勤めていた父・エミール・ヴァルヒャ(Emil Walcha)と音楽愛好家であった母・アンナ・フィッケン(Anna Ficken)の間に生まれる〔LP『ヴァルハ/バッハ・チェンバロ全集』(EMI EAC-60001-14)付属の解説書。〕。ヴァルヒャは幼い頃に天然痘に罹った結果(または種痘の副作用の結果。)、視力を奪われた。父母はあらゆる治療を受けさせ、そのために視力は僅かに回復した〔。 少年時代、ヴァルヒャは姉から楽譜の読み方を習い、音楽に勤しむようになる。弱視のために、楽譜全体を見ることはできないので、各声部を別々に読み取って記憶し、組み合わせて一つの楽曲にまとめ上げたという。このころから、オルガンに興味を持ち、近所の教会のオルガンで練習していたらしい〔。 12歳の時、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコントラバス奏者が、ヴァルヒャの演奏を聴き、アルトゥール・ニキシュのもとへ連れて行った。ニキシュは、彼の演奏を聴き、正規の音楽教育を受けさせることを勧めた。そして、このコントラバス奏者から1年間ピアノを教えられた〔。 1922年(15歳)、ライプツィヒ音楽院に入学するが、在学中に慢性の角膜炎を発症。手術も失敗し、16歳の頃、完全に失明した。在学中、ギュンター・ラミンに師事し研鑽を積む。 1924年(17歳)、ライプツィヒ・聖アンドレ教会でオルガン・コンサートを開きデビュー。成功を収める。人々から同情的な評価を受けるのを嫌がったために、新聞には盲目であることを書かないように頼んだという〔。 1926年(19歳)、ラミンの助手として聖トーマス教会の副オルガニストに就任。翌年、音楽院のオルガニスト資格試験を最優秀の成績で通過し、音楽院を卒業。 1929年、フランクフルトの平和協会のオルガニストに指名される。同年、同地に拠点を置く。 1933年、フランクフルト高等音楽学校のオルガン科教師を務める。(1938年にこの学校は、フランクフルト音楽大学となり、教会音楽家教授に任命。) 1939年、ウルズラ・コッホ(Ursula Koch)と結婚〔。 失明後は母親によって、結婚してからは夫人によって、左右の手(と、オルガンの場合は足鍵盤)のパートをそれぞれ別個に演奏してもらい、それぞれを絶対音感によってしっかり記憶に焼き付けてから一つの楽曲へとまとめ上げたという。バッハの鍵盤作品は40歳頃までに異稿まで暗記したと伝わる。 1946年、フランクフルトのドライケーニヒ教会オルガニストに就任。 フランクフルトに拠点を置いてからは、上記の通りバッハのオルガン曲全曲録音を2度にわたり完成した他、バッハの鍵盤作品について楽譜の校訂作業、オルガンと作曲の教授として講義のみならず自ら模範演奏を行うといった学生への教育活動に従事。1950年には、ゲッティンゲンで開催されたバッハ没後200年記念音楽祭に招待された。 1977年に健康上の理由により演奏活動から引退。 1991年、死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘルムート・ヴァルヒャ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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