|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ヘルメネギルド (Hermenegild、564年 - 586年4月13日)は、西ゴートの王族。レオヴィギルド王とヒスパノ・ローマ人の妻テオドシアの子。レカレド1世の兄。彼は当時イベリア半島で支配的だったアリウス派の教育を受けた(反対にヒスパノ・ローマ人はカトリックだった)。彼のカトリックへの改宗は父親との対立を生む原因となり、父親に対して反乱を起こし、捕らえられてから死んだ。 彼はカトリックの殉教者として1585年に列聖された。彼は改宗者の守護聖人とされ、聖名祝日は4月13日である。 ==生涯== ヘルメネギルドはアウストラシア王シギベルト1世の娘イングンデを妃とした。イングンデはカトリック教徒であり、レオヴィギルドの妃でヘルメネギルドの継母であるゴイスインタから信仰を捨てるよう圧力をかけられながら、彼女は固く信仰を守った。 妃イングンデと、レアンデルスの影響から、ヘルメネギルドはカトリックに改宗した。彼の親族はアリウス派の信仰に戻るよう要求したが、彼は拒絶した。その結果、584年に彼は父レオヴィギルドに対して反乱を起こした。彼は東ローマ帝国に支援を求めたものの、東ローマの反応はなかった。しばらくして彼は教会へ逃げ込んだ。イングンデはヒスパニアの東ローマ都市へ息子を連れて逃れた。東ローマ都市はイングンデ母子を引き渡せというレオヴィギルドの要請を拒否している。イングンデはコンスタンティノープルへ向かう途中、カルタゴで死んで北アフリカに埋葬された〔Gregory of Tours VIII 28〕。 レオヴィギルドは聖域を侵す事はせず、ヘルメネギルドと対話させるためにレカレドを送り、和平を求めた。ヘルメネギルドは父に降伏した。 一方でゴイスインタは王族の中で別の疎外感を味わうようになった。ヘルメネギルドはタラゴナかトレドに幽閉された。 セビリャの塔に幽閉されている際、ヘルメネギルドのところへ、復活祭の時期にアリウス派の聖職者がやってきた。彼は聖職者の手からの聖餐を拒否した〔"Lives of the Saints: For Every Day of the Year" edited by Rev. Hugo Hoever, S.O.Cist, Ph.D., New York: Catholic Book Publishing Co., (1955)〕。レオヴィギルドは息子に死刑を宣告し、ヘルメネギルドは処刑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘルメネギルド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|