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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヘレン・アダムス・ケラー(、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家である。 視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。 == 略歴 == *1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで誕生。父のアーサー・ケラーはスイスから移住したドイツ系の地主の息子で、アーサーの母は南軍の総司令官、ロバート・E・リーとはまたいとこの関係にあり、アーサーもまた南北戦争当時南軍大尉でドイツ系アメリカ人である。母のケイト・アダムス・ケラーも父のチャールズ・アダムスが南軍の准将であり、両親ともに南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹のミルドレッドを持つ。 *1882年、2歳(生後19か月)の時に(現在ではしょう紅熱と考えられている)高熱に伴う髄膜炎に罹患する。医師と家族の懸命な治療により、かろうじて一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえ出来なくなった。このことから、両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。 *1887年、ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、あきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年にもわたって、よき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。 *1888年5月、ボストンのパーキンズ盲学校に通学始める。以後3年間、断続的に学ぶ。 *1890年3月、ボストンのホレース・マン聾学校の校長、サラ・フラーから発声法を学ぶ。 *1894年、ニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学。発声の勉強にはげむ。 *1896年10月、ケンブリッジ女学院に入学、まもなく父アーサーが死去。 *1897年12月、サリヴァンが校長のアーサー・ギルマンと教育方針をめぐって衝突したため、ヘレンはケンブリッジ女学院を退学。2人はボストン南郊のレンサムに家を借りて落ち着く。ヘレンは、もう一人の家庭教師、キースの手を借りて勉強を続ける。 *1900年10月、ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。 *1902年、『わたしの生涯』を出版する。 *1904年、ラドクリフ・カレッジを卒業、文学士の称号を得る。 *1905年5月、サリヴァンがジョン・メイシーと結婚。借家を購入済みのレンサムの家に3人で同居する。 *1906年、マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。 *1909年、アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。 *1913年、ジョン・メイシーがレンサムの家を去り、サリヴァンとの結婚生活が崩壊する。 *1916年、世界産業労働組合 (IWW) に共感を覚え、活動に参加。1917年のロシア革命を擁護した。 *疲れのせいかサリヴァンの目の病気が再発したため、ポリー・トンプソンが手伝い(のちに秘書)として、ヘレンとサリヴァンのもとで働くようになる。 *1917年、生活不安のためレンサムの家を売却、ニューヨーク市、クイーンズ区のフォレスト・ヒルズに転居。 *1918年、ハリウッドで自叙伝を映画化した「救済」に出演。 *1922年、妹と同居中の母ケイトが死去。 *1927年、『「わたしの宗教」』を出版。 *1936年10月20日、サリヴァンが死去。亡くなる直前、サリヴァンは、サリヴァンが病床にあるという理由で岩橋武夫からの来日要請をためらっていたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという〔NHK総合テレビ 『歴史秘話ヒストリア』 2012年2月29日放送分より〕。 *1937年(昭和12年)4月15日、浅間丸に乗りトンプソンとともに横浜港に到着し日本各地を訪問した。 *横浜港に到着したあとすぐに新宿御苑へ行き、そこで開催されていた観桜会で昭和天皇に拝謁した。 *この訪日でヘレンは「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。 *この訪日でヘレンは秋田犬を所望し、後に“カミカゼ”と“ケンザン”という名の2頭を贈られた。 *東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)、同志社女子大学を訪問。 *この訪日の時に、ヘレンは横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまう。そのことが新聞で報道されると、日本全国の多くの人々からヘレン宛てに現金が寄せられた。その額はヘレンが日本を離れる時までに盗まれた額の10倍以上に達していた。 *4月19日には大阪、4月30日には埼玉、そして5月に入ると日本各地を次々と旅して回った。 *8月10日に横浜港より秩父丸に乗りアメリカへ帰国した。このときヘレンに連れられた愛犬カミカゼが初めてアメリカに持ち込まれた最初の秋田犬となる。カミカゼが他界した後、ケンザンもアメリカへ呼び寄せている。 *フォレスト・ヒルズの家からコネチカット州のウエスト・ポートに移転。 *1939年、ウエスト・ポートで、慈善家によってヘレンのために特別に建てられ寄贈された家に転居。 *1946年、海外盲人アメリカ協会の代表として、トンプソンとともにヨーロッパを訪問中の11月ヘレンの住宅が全焼。原稿、資料その他貴重な所有物をほとんど失う。 *1947年10月、再建、入居。 *1948年(昭和23年)8月、2度目の日本訪問。2か月滞在して全国を講演してまわる。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。 *1951年、南部アフリカを訪問。 *1952年、フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられる。 *同年から1957年にかけて、中東、中部アフリカ、北欧、日本を訪れる。 *1955年(昭和30年)、サリヴァンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日も実施し、熱烈な歓迎を受けた〔この時、講演での通訳を務めたのが『赤毛のアン』の翻訳で有名な村岡花子だった。「三重苦の私を、日本の皆さまが心からご歓待くださるので、感謝にたえません。しかし、あなたがたの国、日本には私以上に不幸な人たちがいるのに、なぜその人たちにもっと温かい手をさしのべてくださらないのでしょうか」と話した言葉を花子はことあるごとに子供たちに伝えた(村岡恵理責任編集『村岡花子と赤毛のアンの世界』河出書房新社 p.12)。〕。訪日の理由の一つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられる。 *1960年、トンプソン死去。 *1961年、軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。 *1964年9月、アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。 *1968年6月1日、コネチカット州イーストンの自宅で死去。。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂の壁内にサリヴァン、トンプソンと共に葬られている。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘレン・ケラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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