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ヘンデル ( リダイレクト:ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ) : ウィキペディア日本語版
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル


ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(, 1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ生まれでイギリス帰化した作曲家バロック期を代表する重要な作曲家の一人。彼は生涯の約3分の2をイギリスで過ごしており、イギリスでの活動歴が圧倒的に長いことから、英語名でジョージ・フリデリック・ハンデル(ハンドル、ヘンドル、George Frideric Handel)と呼び、イギリスの作曲家として扱うべきとする意見もある(少なくともイギリスではそのように扱われている)が、日本ではもっぱらドイツ名で知られ、ドイツの作曲家として扱われるのが通例である。
== 生涯 ==
ヨハン・ゼバスティアン・バッハと同じ1685年、現ザクセン=アンハルト州(当時はブランデンブルク=プロイセン領)のハレ・アン・デア・ザーレに生まれた〔ちなみにヘンデルが生まれた時、彼の母は34歳で、父は63歳の高齢だったという。ヘンデルの父は、音楽家の社会的地位が低く収入も不安定であるという理由から、息子が音楽の道へ進むことに猛反対しており、息子の将来については社会的地位の高い法律家への進路を強く希望していた。〕。彼は幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、彼の父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、幸いにも当時のハレの領主がヘンデルの音楽の才能を気に入り、ヘンデルは領主の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという〔この点、先祖代々音楽家の家庭に生まれ、生まれた時から音楽家になるべくして育てられたバッハとは対照的な境遇であったと言える。〕。それでも彼は厳格な父の期待に従い、ハレ大学で法律を学んだが、音楽への情熱を断ち切れずハンブルクへ出てオペラで成功した(この頃には彼の父は既に死去しており、彼は自由の身になっていた)。1706年からはイタリアの各地を巡り、イタリアオペラに接してそれを吸収し、またオペラに加えてカンタータオラトリオなども発表する。1710年ハノーファー選帝侯宮廷楽長となったが、宮廷楽長の地位はそのままに1712年にはロンドンに移住し、1727年には正式に帰化した(1714年のイギリスのアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになる)〔このようにドイツから出てイタリアに留学した後にイギリスに帰化し、国際的な活躍を続けていたヘンデルとは対照的に、バッハは生涯ドイツから出た経験がなく、当時のヨーロッパにおいてバッハよりもヘンデルの方が有名であった要因の一つとされている。もっとも、先祖代々音楽家の家庭に生まれ育ったバッハと異なり、ヘンデルは音楽家としての活動の場を自力で開拓しなければならず、それがヘンデルを積極的に海外へ向かわせる原動力になったとも言える。〕。
ちなみにバッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった〔当時のヨーロッパではバッハよりもヘンデルの人気が圧倒的に高く、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われる。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンヨハン・マッテゾンクリストフ・グラウプナーなど、ヘンデルとバッハの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。〕。バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、日本ではヘンデルを俗に「音楽の母」と呼ぶこともあるが、これは日本人がヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で考案した呼び名であり、欧米にはこのような呼び名は存在しない〔そもそもヘンデルは男性であるから、「母」という表現自体が不適切である。また、ヘンデルとバッハが存命していた当時のヨーロッパにおいては、バッハはヘンデルよりも格下の扱いを受けており、両名は決して対等の存在ではなかったと言われる。当時のライプツィヒの新聞で作曲家の人気投票を行ったところ、1位はテレマンで、ヘンデルは2位、バッハは7位だったという記録がある。〕。
1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなったが、その後も演奏活動だけは続けていた。その後1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医を名乗るにより手術を受けたが成功しなかった(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗している)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳であった。
ちなみにヘンデルは生涯独身で子供はいなかった。これに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供(無事に成長した子供は約10人)に恵まれた子沢山の父親として知られており、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいたと言われている。
余談ではあるが、ヘンデルはスウェーデンからロンドンへ留学してきたユーハン・ヘルミク・ルーマンを弟子とし、彼を北欧のヘンデルと称されるまでの、北欧バロック界における重要な作曲家と位置づけられる大家に育て上げた。
同じドイツのバロック音楽の作曲家で、外交官など様々な肩書きを持つヨハン・マッテゾンとは親友関係にあったが、マッテゾンの歌劇《クレオパトラ》(1704年)の上演中に二人は喧嘩を始めた挙句、マッテゾンに刺殺されそうになったことがある。しかし後に和解している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George Frideric Handel 」があります。




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