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ヘントの祭壇画 : ミニ英和和英辞書
ヘントの祭壇画[へんとのさいだんが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつり]
 【名詞】 1. festival 2. feast
祭壇 : [さいだん]
 【名詞】 1. altar 
: [だん]
 【名詞】 1. (1) platform 2. podium 3. rostrum 4. (2) (arch) mandala 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

ヘントの祭壇画 : ウィキペディア日本語版
ヘントの祭壇画[へんとのさいだんが]

ヘントの祭壇画』(ヘントのさいだんが、)または、『神秘の子羊』『神秘の子羊の礼拝』()は、複雑な構成で描かれた非常に大規模な多翼祭壇画
==概要==

板に油彩で描かれた初期フランドル派絵画を代表する作品の一つで、ヘントのシント・バーフ大聖堂(聖バーフ大聖堂) (:en:Saint Bavo Cathedral)が所蔵している。
12枚のパネルで構成されており、そのうち両端の8枚のパネル(翼)が畳んだときに内装を覆い隠すように設計されている。これら8枚のパネルは表面(内装)、裏面(外装)ともに絵画が描かれており、翼を開いたときと畳んだときとで全く異なった外観となって現れる。『ヘントの祭壇画』は、日曜日と祝祭日以外の日には翼が畳まれており、さらに布が掛けられていることも多い。

『ヘントの祭壇画』の制作を開始したのは、その生涯も作品もほとんど伝わっていないフランドルの画家フーベルト・ファン・エイクである。フーベルトが『ヘントの祭壇画』のデザインのほとんどを完成させたと考えられているが、フーベルトは製作途中の1426年に死去してしまう。その後、未完だった『ヘントの祭壇画』の大部分を、1430年から1432年にかけて完成させたのがフーベルトの弟であるヤン・ファン・エイクである〔Burroughs (1933), p.184〕。『ヘントの祭壇画』の、どの部分がフーベルトが描いた箇所で、どの部分がヤンが描いた箇所なのかを特定しようという試みが何世紀にもわたって続けられているが、未だに定説となっているものはない。現在もっとも広く受け入れられている説は、全体のデザインと構成はフーベルト、そして個々のパネルを絵画として完成させたのが、外交官として派遣されていたスペインから帰国してきたヤンだとする説である。
『ヘントの祭壇画』の制作依頼主で、この祭壇画を教会に寄進したのは、商人、投資家、そして政治家でもあったヨドクス・フィエトで、当時のヘントでは市長に相当するような地位にあった人物である。洗礼者ヨハネ教会(現在のシント・バーフ大聖堂の前身)の教会区に、ヨドクスとその妻エリザベト・ボルルートが後援者となって建てる新しい礼拝堂用の祭壇画として、フーベルトに『ヘントの祭壇画』の制作を依頼した。完成した『ヘントの祭壇画』がお披露目されたのは1432年5月6日で、ブルゴーニュ公フィリップ3世のために開催された公式行事の一環としてだった。『ヘントの祭壇画』はそのまま予定通りにヨドクスが出資した新築の礼拝堂に飾られていたが、後に保安上の理由から聖堂付属の主礼拝堂へと移設されて、紆余曲折があったものの現在もこの主礼拝堂に展示されている。
『ヘントの祭壇画』の様式には、国際ゴシックと、伝統的なビザンティン美術ローマ美術からの影響が見られるが、一方で「美術の新たな概念」が描き出されている。モチーフを理想化して表現する伝統的なそれまでの中世美術 (:en:Medieval art) ではなく、自然の正確な観察に立脚した写実主義が表現されているのである〔Gombrich, E.H., ''The Story of Art'', pp. 236–9. Phaidon, 1995. ISBN 0-7148-3355-X〕。オリジナルのフレームに記されていた、現在は失われてしまっている銘文には「比肩できるものは誰もいない ()」画家フーベルト・ファン・エイクがこの祭壇画を描き始め、「二番目に優れた ()」画家ヤン・ファン・エイクが1432年に完成させたとあった〔Burroughs, pp.184–193〕。オリジナルのフレームは極めて華美なものだったが、宗教改革のさなかに失われてしまっている。このフレームには翼を畳んだり、楽器を奏でることができるぜんまい仕掛けの機能があった〔Website with scanned reconstructions of the frame from Lotte Brand Philip's book, ''The Ghent Altarpiece'' (Princeton, 1971), which originated some of these ideas.〕。
『ヘントの祭壇画』の外装に描かれている絵画は三段に分かれている。外装中段に描かれているのは聖母マリアの受胎告知である。外装下段は縦四つに仕切られており、内側部分には単色のグリザイユで表現された彫像のような洗礼者ヨハネ福音記者ヨハネが、外側部分には『ヘントの祭壇画』の制作依頼主であるヨドクス・フィエトと妻エリザベト・ボルルートの肖像 (:en:donor portraits) が描かれている。内装上段にはイエス・キリスト(異説あり、後述)を中心として聖母マリアと洗礼者ヨハネが描かれている(デイシス)。マリアの左隣のパネルには歌う天使たちが、さらにその左隣のパネルにはアダムが描かれている。洗礼者ヨハネの右隣のパネルには楽器を奏でる天使たちが、さらにその右隣のパネルにはイヴが描かれている。内装下段の中央部分に描かれているのは神の子羊で、その周囲には神の子羊を崇拝するために集った天使、聖人、預言者、聖職者や、聖霊の化身であるハトなどが描かれている。
『ヘントの祭壇画』はその制作以来、北方ヨーロッパ絵画の最高傑作のひとつであり、人類の至宝と見なされてきた〔Kurtz (2004), p.24〕。宗教改革時に巻き起こった聖像破壊運動では、『ヘントの祭壇画』も破壊されかけたことがある。さらにパネルが裁断されて、売払われたり略奪されたこともあった。第一次世界大戦の終結後に、散逸していた『ヘントの祭壇画』のパネルが元通りシント・バーフ大聖堂に戻された。しかしながら、1934年に左下部の「正しき裁き人」のパネルが盗難に遭い、2013年現在も行方不明のままとなっている。第二次世界大戦ではナチス・ドイツが『ヘントの祭壇画』を略奪し、他の略奪絵画とともにオーストリアの岩塩坑に隠匿していた。終戦後の1945年になってベルギーに返還されたが、『ヘントの祭壇画』の顔料、ワニスが大きな損傷を被っており、全体的な修復が施された。現在の『ヘントの祭壇画』に見られる「正しき裁き人」は、この修復時に制作された複製画である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘントの祭壇画」の詳細全文を読む




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