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ヘンリー・カボット・ロッジJr. : ミニ英和和英辞書
ヘンリー・カボット・ロッジJr.[じぇい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ロッジ : [ろっじ]
 【名詞】 1. lodge 2. (n) lodge

ヘンリー・カボット・ロッジJr. ( リダイレクト:ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア ) : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア[じぇい]

ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア, 1902年7月5日 - 1985年2月27日)はアメリカ合衆国政治家外交官。連邦上院議員(マサチューセッツ州選出、1937年 - 1944年1947年 - 1953年)、国連大使(1953年 - 1960年)、駐南ベトナム大使(1963年 - 1964年)、無所任大使(1967年 - 1968年)、駐西ドイツ大使(1968年 - 1969年)、パリ和平交渉のアメリカ代表団代表、駐バチカン大使(1970年 - 1977年)を歴任。1960年の共和党副大統領候補。祖父は上院議員、上院外交委員長を務めたヘンリー・カボット・ロッジ'', 1902年7月5日 - 1985年2月27日)はアメリカ合衆国政治家外交官。連邦上院議員(マサチューセッツ州選出、1937年 - 1944年1947年 - 1953年)、国連大使(1953年 - 1960年)、駐南ベトナム大使(1963年 - 1964年)、無所任大使(1967年 - 1968年)、駐西ドイツ大使(1968年 - 1969年)、パリ和平交渉のアメリカ代表団代表、駐バチカン大使(1970年 - 1977年)を歴任。1960年の共和党副大統領候補。祖父は上院議員、上院外交委員長を務めたヘンリー・カボット・ロッジ
==生い立ちと経歴==
ロッジはマサチューセッツ州ナハントで生まれる。ロッジ家はマサチューセッツにおいて政治及び芸術で著名な一族であった。父親は詩人のジョージ・カボット・ロッジであり、母親はマチルダ・エリザベス・フリーリングハイゼン(デイヴィス)ロッジであった。彼は上院議員のヘンリー・カボット・ロッジの孫であり、父親が1909年に死去すると、祖父がその成長に大きな影響を与えることとなった。彼はまた上院議員のジョージ・カボットの子孫でもあり、下院議員のオーガスタス・ピーボディ・ガードナーの甥でもあった〔The Political Graveyard accessed 2007-07-06〕。
ロッジはミドルセックス・スクールに通い、1920年に卒業、その後1924年にハーバード大学を優等で卒業した。「ヘラルド・トリビューン」紙などの新聞記者を経て、1931年にマサチューセッツ州下院議員に選出、1936年まで同職を務める。同年の上院議員選挙で共和党から出馬、前知事のジェームズ・マイケル・カーリーを破って当選する。
ロッジは陸軍に入隊し、功績を挙げ中佐まで昇進した。第二次世界大戦では2度の勤務を経験した。最初は1942年、この時は上院議員を兼務していたが、2度目の1944年から45年は議員を辞職して軍務に専念した。
最初の期間は陸軍予備役士官としてであった。彼は第1装甲師団に少佐として着任した。同師団は北アフリカを拠点とし、英軍戦車部隊と共にエジプトリビアで活動した〔"Into the Funnel, " Time Magazine, 1942-07-42.〕。部隊は地上でドイツ軍と最初に接触したアメリカ軍装甲部隊であった〔"For Services Rendered, " Time Magazine, 1942-07-20.〕。フランクリン・D・ルーズベルト大統領は軍務を兼任する国会議員に対して兼務を禁止する命令を出し、ロッジは議員に留まることを選択したため任務は1942年7月に終了した。ヘンリー・スティムソン陸軍長官ワシントンへの帰還命令を出し、彼は帰国した〔。
ワシントンに戻り1942年11月に再選を果たすと、ロッジは上院議員としての任期の初年度を勤務した。しかしながら1944年2月3日に議員を辞職、軍務に復帰した〔"Lodge in the Field, " Time Magazine, 1944-02-14.〕。彼は南北戦争以来初めての、軍務に就くため辞職した議員であった〔http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=l000394〕。イタリアおよびフランスで実戦を経験し、中佐に昇進する。1944年の秋には自力でドイツ軍斥候4名を捕虜として捕らえている〔"People, " Time Magazine, 1944-10-09.〕。1945年3月までに彼はフランスのレジオンドヌール勲章と、クロア・ド・ゲールを受章した〔"Reservations, " Time Magazine, 1945-03-19.〕。1945年の終戦時に彼は第6軍司令官ジェイコブ・デヴァース将軍の連絡及び通訳担当将校として西オーストリアにおいてドイツ軍の降伏交渉に臨席した。
戦後ロッジはマサチューセッツに戻り、再び上院議員に選出、政治経歴を再開した。
1952年、ロッジは上院議員選で対立候補のジョン・F・ケネディに敗北するが、1953年にはドワイト・D・アイゼンハワー大統領より国連大使に任命される。1960年の大統領選でロッジはリチャード・ニクソンによって副大統領候補に指名され、国連大使を辞任した。ニクソンは大統領選でケネディに敗れ、ケネディはロッジを南ベトナム大使に任命した。ロッジは同職を1963年から64年まで勤めた。
1964年の共和党大統領候補者争いでは、ネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事とバリー・ゴールドウォーター上院議員が激しく競っていた。ロッジは当初から立候補するつもりはなかったが、ニューハンプシャー州予備選で有力な2人を破り、書き込み投票(Write-in)で1位になった。ロッジは改めて指名を求める意志がなく、ロックフェラーを支持することを表明したが、その後も地元マサチューセッツ州、ニュージャージー州の予備選で勝利した。
ロッジは1985年に死去し、マサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア」の詳細全文を読む




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