|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヘンリー・スタウト(Henry Stout、1838年1月16日 - 1912年2月16日)は、アメリカ・オランダ改革教会が5番目に派遣した宣教師である。長崎で伝道活動をした。 == 生涯 == アメリカ合衆国ニュージャージー州ラリタン村でオランダ系アメリカ人ジョン・スタウトの7人兄弟の第3子として生まれた。20歳の時に、父や姉と一緒に洗礼を受けた。1865年にラトガース大学を卒業し、ニューブランズウィック神学校に入学する。J・L・アメルマンが同級生だった。1868年には神学校を卒業して、ラリタン中会で教師資格を得た。同年6月にエリザベス・プロボストと結婚する。 1868年に長崎にいたグイド・フルベッキより、アメリカ・オランダ改革派教会海外伝道局に宣教師派遣の要請があり、スタウトが選ばれた。1869年3月10日にスタウトは夫婦でフルベッキのいた長崎に到着した。スタウトが到着して12日後にフルベッキは大学開成学校の教師になるために東京に転居。フルベッキが住んでいた大徳寺に住み、長崎で宣教活動をすることになった。 フルベッキの後任として広運館で英語を教えた。1872年には広運館教師を辞職して、自宅で聖書を教科書に用いて夜間英語塾を始めた。広運館の生徒らも参加した。その中で、瀬川浅が1873年9月に洗礼を受けた。1876年には長崎日本基督公会が組織された。 1874年にC.H.H.ウォルフ、1897年にユージーン・ブース、1884年にハワード・ハリスが短期間滞在したが、やがて東京・横浜に移っていった。 1878年9月の会議でアメリカ改革教会日本伝道会社が組織されて、長崎ステーションと呼ばれるようになった。フルベッキらが手伝いに来てくれることはあったが、スタウトが孤軍奮闘していた。 1883年にデマレスト、1886年にオルトマンズ、1888年にピークらが訪日したことで、長崎の活動が軌道に乗り始める。瀬川が東京一致神学校を卒業して1877年に戻ると鹿児島の開拓伝道を計画した。1878年に瀬川と留川一路を鹿児島に派遣する。 1881年7月に、瀬川浅と青山昇三郎、服部章蔵と共に日本基督一致教会の西部中会が設立された。1884年に来日した女性宣教師メリー・E・ブロカウが女子学校を、1886年に訪日したアルバート・オルトマンスが男子学校を設立する。1887年には東山学院(スティール・アカデミー)神学部や(スターヂス・セミナリー)女子教育部(現・梅光学院)を開校する。 1889年日本伝道会社から長崎ステーションが独立して、アメリカ改革教会南日本伝道社になる。1895年に妻の健康不安のためにアメリカに一時帰国する。スタウト不在の間に神学部は閉鎖される。1889年に帰国するが、1902年に妻が長崎で死去する。1904年にスタウトは宣教師を辞職し、1906年にアメリカに帰国する。 アメリカではニュージャージー州バウンド・ブルック教会で1907年より、レッド・バンク教会で1909年から牧師を務めて、1910年に引退する。1911年に再訪日。1912年にニュージャージー州レイクハーストで死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・スタウト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|