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ヘンリー・スペンサー・アッシュビー : ミニ英和和英辞書
ヘンリー・スペンサー・アッシュビー[びー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee

ヘンリー・スペンサー・アッシュビー ( リダイレクト:ヘンリー・スペンサー・アシュビー ) : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・スペンサー・アシュビー[びー]
ヘンリー・スペンサー・アシュビー(Henry Spencer Ashbee, 1834年4月21日1900年7月29日)は、イギリス実業家書誌学者エロティカの蒐集家として知られる他、『我が秘密の生涯』(''My Secret Life'')の著者の可能性が高い人物としてしばしば名前が挙げられる。
== 略歴 ==
アシュビーは1834年4月21日ロンドン・サザック(Southwark)で火薬工場の経営者ロバート・アシュビーとその妻フランセスとの間に生まれた。幼少時代については記録が残されていないが、14歳でケンジントンの寄宿制グラマー・スクールに入学し、教育を受けた。生来より読書好きであったアシュビーはこの学校の図書室で多くの時間を過ごし、16歳で卒業した後、紡績関係の仕事に就いた。
アシュビーは20歳を数える頃から日記をつけており、その中でも女性に対して興味を抱いている自分の感情をつぶさに書き綴っていたが、エロティカ蒐集の直接のきっかけとなったのは1850年代のある時期に知り合ったベルギー人ジョゼフ・オクターヴ・デルピエールに拠る所が大きい。デルピエールは当時ロンドンでベルギー領事館の領事を務めていた人物で、エロティカに深く精通していただけでなく、様々な人脈を持っていた。デルピエールを通してアシュビーは次第に、エロティカの世界へと入っていくこととなる〔小林、p.31。〕。
1862年6月、28歳になったアシュビーはドイツハンブルクで結婚する。相手はユダヤ系ドイツ人の商人エドワード・オットー・チャールズ・レイヴィーの娘、エリザベス・ジョセフィン・ジェニー・レイヴィーであった。この結婚によってアシュビーはエドワードの経営する会社のロンドン支店経営パートナーの座に付くこととなり、一躍裕福な暮らしを送るようになった。1865年には住居をロンドン中心部のブルームズベリー(Bloomsbury)へと移っている。エリザベスとの間には3人の娘と2人の息子をもうけたが、息子の一人は出産直後に死亡している。もう一人の息子はアーツ・アンド・クラフツ運動を普及させた芸術家の一人チャールズ・ロバート・アシュビーCharles Robert Ashbee)である〔小林、p.44。〕。
1867年に父ロバートが死去すると、その遺産をも管理するようになった。仕事柄、ヨーロッパ各地を飛び回ることの多かったアシュビーは、その傍らで各国のエロティカ蒐集に精を出していたが、この傾向は同居していた父の死後はさらに顕著になり、仕事だけでなく観光などの名目で海外旅行をするようになった。買い集めたエロティックな書物は、家族の目に触れぬよう、自宅からそう遠くないホウボン(Holborn)に借りた家に保管していた。
1860年代末から1873年までは日記が残されておらず、1869年1873年に娘が生まれたことなど、断片的な情報しかわかっていない。40歳を越えた頃から蒐集したエロティカの書誌情報について雑誌などに多くの文章を寄稿するようになる。1880年代に入ると活動範囲は世界中に広がり、1880年10月から翌1881年7月までの間にエジプトインドセイロンペナンシンガポールジャワシャム香港上海北京広東日本アメリカ合衆国を周遊している。目的としては仕事上関わりのある各地の代理人との打ち合わせや名所旧跡の観光であり、これらを纏め上げた旅行記を出版することを考えていたようである〔小林、p.35。〕。この日記の中でもエロティカに対する興味があったことが伺える記述が時折出てきており、「ああ卑猥だ、とても卑猥だ」(インドの仏像を眼にして)、「胸の形がじつにいい」(バンコクで裸同然の女性を眼にして)といったことを書き残している〔小林、p.37。〕〔ちなみに日本に来たのは1881年の春ごろであり、着物女性の胸が丸見えであったこと、混浴温泉で女性が裸で入浴していたこと、吉原遊廓に訪れた時の感想などを書き綴っている。〕。
1891年、アシュビーは家族と別居することとなる。この原因には、家族間での金銭的なトラブルとする説やアシュビーに愛人がいたとする説、エロティカの蒐集が家族にばれてしまったとする説などがあるが、はっきりとはわかっていない〔小林、pp.48-51。〕。
晩年に入るとエロティカの蒐集だけでなく古典の版本蒐集などにも手を出すようになり、それらの書誌情報をまとめあげては発表することで「ブック・コレクター」や「書誌学者」としてアシュビーの名は知られるようになる。最も知られているのはミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』版本の蒐集で、アシュビーのコレクションは384点にのぼっており、これは個人としては最大のコレクション数である〔小林、p.52。〕。その他にもフランスの喜劇作家モリエールや小説家アラン=ルネ・ルサージュ(Alain-René Lesage)の作品、18世紀のイギリスの水彩画作品など、エロティカにとどまらない多数のコレクションを所持していた。1896年にはこうした功績からマドリード王立アカデミー在外会員に選出された。
その後ケントに移ったアシュビーは、従妹にあたる女性に面倒を見てもらいつつ、1900年7月29日、肺の病や心臓疾患の悪化、肝機能の低下といった複合的な要因により死去した。『タイムズ』などのロンドンの新聞にはブック・コレクター、書誌学者、実業家として成功した人物として追悼記事が出された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘンリー・スペンサー・アシュビー」の詳細全文を読む




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