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ヘンリー4世(Henry IV, 1367年4月3日 - 1413年3月20日)は、イングランド国王(在位:1399年 - 1413年)。エドワード3世の第3子ジョン・オブ・ゴーントと初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュの長男。リンカンシャーのボリングブロク城で生まれたので、ヘンリー・ボリングブロク(Henry Bolingbroke)とも言われる。即位前はヘリフォード伯、ダービー伯。 1380年、ヘリフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの次女メアリーと結婚。1390年から1392年にかけてドイツ騎士団のリトアニア遠征に加わった。 1398年、従兄のリチャード2世にトマス・モウブレーとの諍いを咎められ、パリに追放されて相続権を奪われ、翌年に父が死んで残ったランカスター公領も没収された。1399年7月4日にイングランドに上陸。8月にはアイルランド遠征から帰還途中のリチャード2世をウェールズとの国境で破り、リチャードを逮捕した。9月30日、議会はリチャード2世の廃位とヘンリーの王位継承を議決、ランカスター朝を開いた。 治世の初期、ウェールズでのオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)の(1400年 - 1415年)や、との(1402年)、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー・ホットスパー父子のなどに悩まされたが、長男のハル(ヘンリー5世)らの働きもあって晩年の治世は安定した。 1403年、ブルターニュ公ジャン4世の未亡人ジャンヌ・ド・ナヴァール(ジョーン・オブ・ナヴァール)と再婚する。子供はいない。 1406年、スコットランド王ロバート3世の嗣子ジェームズ(後のジェームズ1世)を捕らえ、人質とした。 1407年、父の3度目の夫人キャサリン・スウィンフォードとの間に生まれたジョン・ボーフォートら4人の異母弟妹たちが将来の王位継承の不安材料となるため、「キャサリンの子女の嫡出は認めるが、王位継承の権利は排除する」と改めた。 1413年3月20日、リトアニア遠征の時にかかった伝染性疾患のため、ウェストミンスター・アベイで死去した。 == 子女 == 最初の妻メアリーとの間に5男2女を儲けた。 * エドワード(1382年) * ヘンリー5世(1387年 - 1422年) * トマス(1388年 - 1421年) - クラレンス公 * ジョン(1389年 - 1435年) - ベッドフォード公 * ハンフリー(1390年 - 1447年) - グロスター公 * ブランシェ(1392年 - 1409年) - プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世と結婚 * フィリッパ(1394年 - 1430年) - デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの王エーリク7世と結婚 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー4世 (イングランド王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henry IV of England 」があります。 スポンサード リンク
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