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ヘンリー岬の海戦(ヘンリーみさきのかいせん、)は、アメリカ独立戦争終盤の1781年3月16日、チェサピーク湾の湾口近くで起こった海戦である。イギリス海軍のマリオット・アーバスノット海軍中将が率いる艦隊とフランス海軍のシュバリエ・デトーシュ提督が率いる艦隊が対戦した。デトーシュの艦隊はロードアイランドのニューポートを基地としており、バージニアで活動しているイギリス軍ベネディクト・アーノルド准将の部隊に対抗するために大陸軍と共同作戦を取る過程でチェサピーク湾に赴いていた。 デトーシュ提督は、ジョージ・ワシントン将軍からラファイエット侯爵のアーノルド隊に対する作戦を支援するためにチェサピーク湾にその艦隊を動かすよう求められた。デトーシュの艦隊は3月8日に出港し、ロングアイランド東部から出港したアーバスノット提督の艦隊がそれに遅れること2日で続いた。アーバスノット提督の艦隊はデトーシュ艦隊を追い越し、3月16日にバージニアケイプス(チャールズ岬とヘンリー岬)に到着した。数時間の操船後に両艦隊が戦闘に入り、どちらも幾らかの損傷と人的損失を出したが、艦船は失われなかった。しかし、アーバスノット艦隊は戦いながらチェサピーク湾に入ることができ、デトーシュの目的を妨害できた。デトーシュ艦隊はニューポートに戻り、アーバスノット艦隊はアーノルド将軍部隊への援軍が到着するまで湾を保護できた。 == 背景 == 1780年12月、イギリス軍北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントン将軍はベネディクト・アーノルド准将(その年の9月にイギリス軍に寝返っていた)に約1,700名の部隊を付けてバージニアに派遣し、現地で襲撃を行わせ、ポーツマスの防御を固めさせた〔Russell, p. 217–218〕。ジョージ・ワシントン将軍はラファイエット将軍に小さな部隊を付けて南部に派遣し、アーノルド隊に対抗させた〔Russell, p. 254〕。ワシントンはラファイエットの陸軍とフランス海軍の間にアーノルド隊を閉じ込めようと考え、ニューポートにいるフランス海軍指揮官のシュバリエ・デトーシュ提督に援助を求めた。デトーシュはニューヨークのロングアイランド東端ガーデイナーズ湾に停泊するイギリス海軍北アメリカ艦隊が幾らか戦力が上回っていたので、その脅威について心配しており、支援には消極的だった〔。 2月初旬にあった嵐でアーバスノット艦隊に幾らかの損失を与えており、このことでデトーシュはその後直ぐに3隻の艦船の戦隊を南部に派遣した。この戦隊がチェサピーク湾に到着すると、アーノルド隊を支援していたイギリス艦船は水深の浅いエリザベス川に移動したので、フランス戦隊は追撃できなかった。フランス戦隊がニューポートに戻る途中で、イギリス軍がこの戦隊の動きを探らせるために派遣していた数隻の艦船の1つ、フリゲート艦''HMSロムルス''を捕獲した。この小さな成功に加えてワシントン将軍からの激励もあり、デトーシュは全艦隊による作戦行動を始めることになった。3月8日、デトーシュ艦隊がニューポートから出港するときはワシントンもそこで見送った。この艦隊にはチェサピーク湾に着いたときに陸戦に使うための1,200名の兵士を乗せていた〔〔。 マリオット・アーバスノット海軍中将はイギリス海軍北アメリカ艦隊の総指揮官であり、デトーシュが何かを企んでいることに気付いていたが、3月10日になってデトーシュ艦隊が出港したことを知り、即座に追撃のためにその艦隊を率いてガーディナーズ湾を出港した。その艦船は銅装甲艦だったので速度が出せるものであり〔"Coppering" a ship had, among other benefits, the reduction of accumulations on the hull of foreign matter that increased drag. (McCarthy, p. 103).〕、風向きも良かったので3月16日にヘンリー岬に到着したが、デトーシュ艦隊より僅かに先行できた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー岬の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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