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ヘンリー砦の戦い : ミニ英和和英辞書
ヘンリー砦の戦い[へんりーとりでのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [とりで]
 (n) fortress
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ヘンリー砦の戦い : ウィキペディア日本語版
ヘンリー砦の戦い[へんりーとりでのたたかい]

ヘンリー砦の戦い(ヘンリーとりでのたたかい、英:Battle of Fort Henry)は、南北戦争初期の1862年2月6日に、テネシー州西部で行われた戦いである。西部戦線では北軍ユリシーズ・グラント准将にとって最初の重要な勝利だった。
2月4日と5日にグラントはテネシー川沿いヘンリー砦の真北に2個師団を上陸させた。その作戦は2月6日に砦に向かって前進させ、一方でアンドリュー・H・フット海軍将官が指揮するアメリカ海軍砲艦が同時攻撃を掛けるというものだった。海軍の効果的な砲撃に、砦が増水した川水でほとんど完全に浸水しているという悪い位置条件も重なり、陸軍が到着する前に、南軍の指揮官ロイド・ティルマン准将はフットに降伏した。
ヘンリー砦の降伏によりテネシー川はアラバマ州境まで北軍の交通が自由となり、そのことは2月6日から12日まで木製船の「ティンバークラッド」襲撃という形で実証され、南軍の船舶や鉄道橋を破壊した。グラント軍は陸路を12マイル (19 km)進んで、流血の多かったドネルソン砦の戦いに向かった。
== 背景 ==
1861年初め、重要な境界州であるケンタッキー州は合衆国を維持するための戦いでは中立を宣言した。9月3日、南軍のギデオン・J・ピロー准将がレオニダス・ポーク少将からの命令で行動を起こし、ケンタッキー州コロンバスを占領したのに対し、2日後には北軍のグラントが、後の経歴を特徴づける個人的な独創性を活かして、ケンタッキー州パデューカを占領したときに、ケンタッキー州の中立が初めて破られた。これ以降、両軍共にケンタッキー州の中立宣言を尊重することはなく、南軍の優位は失われた。ケンタッキー州が果たしていた緩衝地帯の役割が無くなり、テネシー州を守ることができなくなった〔Nevin, p. 46; Eicher, pp. 111-13; Gott, pp. 37-39; Cooling, p. 4.〕。
1862年初め、南軍側は1人の将軍アルバート・ジョンストンアーカンソー州からカンバーランド渓谷まで全軍を指揮した。しかしその軍隊は広い防衛線を布いたので厚みのないものになった。左翼はコロンバスにいるポークの12,000名だった。右翼はサイモン・ボリバー・バックナー准将がケンタッキー州ボウリング・グリーンで4,000名を率いた。中央はロイド・ティルマン准将が指揮する2つの砦であり、これも勢力は4,000名だった。ヘンリー砦とドネルソン砦はそれぞれ、テネシー川とカンバーランド川を守る孤立した位置にあった。もしこれらの川が北軍の交通に使われれば、テネシー州やその先まで2つの侵入経路が使えることになるはずだった〔Esposito, text to map 25; Nevin, p. 54.〕。
西部戦線における北軍は3つの別々ので構成されており、統一された指揮系統が無いという弱みがあった。デイビッド・ハンター少将のカンザス軍、ヘンリー・ハレック少将のミズーリ軍、およびドン・カルロス・ビューエル准将のオハイオ軍だった。1862年2月まで、西部戦線における作戦の戦略が何も合意されなかったので、この指揮系統の分裂は明らかだった。ビューエルはテネシー州東部に侵攻し北部寄りのそこを抑えておくという政治的な圧力を受けて、ナッシュビルの方向に緩りと向かった。ハレックのミズーリ軍では、グラントがビューエルの意図した進軍から南軍の注意を逸らすためにテネシー川での示威行動をしたが、進軍は実現しなかった。西部戦線のハレックを始め他の将軍達は、エイブラハム・リンカーン大統領からワシントンの誕生日(2月の第3月曜)までに、全体的な攻勢行動を行うよう圧力が掛かるようになっていた。ハレックは従来の用心深さにも拘わらず、最後はグラントの提案を容れて攻勢に動きヘンリー砦を目指した。ハレックはこのことで、そのライバルであるビューエルに対する相対的立場をよくすることを期待した。しかし、ハレックとグラントは、南軍の将軍P・G・T・ボーリガードが間もなく多勢の援軍を連れてこの戦線に到着するという噂も心配しており、迅速な行動が必要とされた。1862年1月30日、ハレックはグラントのヘンリー砦を奪取する作戦を承認した〔Cooling, pp. 9-11; Eicher, p. 148; Gott, pp. 45, 46, 68, 69, 75; Esposito, map 25; Simon, p. 104.〕。

グラントは時間を浪費せず、2月2日にはカイロを発った。その侵攻軍は、ジョン・A・マクラーナンドとチャールズ・F・スミス各准将の2個師団15,000名ないし17,000名と、アメリカ海軍アンドリュー・H・フットの指揮する西部船隊で構成されていた。フット船隊には4隻の鋼製被覆砲艦(旗艦USSシンシナティ、USSカロンデレト、USSセントルイスおよびUSSエセックス)がフットの直接指揮下にあり、3隻の木製被覆(ティンバークラッド)砲艦(USSコネストーガ、USSタイラーおよびUSSレキシントン)はセス・レッドヤード・フェルプス大尉が指揮した。南北戦争のこの時期では全軍を1回の行程で送り込むだけの輸送能力が無く、砦に到着するには2回に分けて川を遡る必要があった〔Estimates of Grant's troop strength vary. Cooling, pp. 11-12: 15,000. Gott, pp. 76-78: 15,000. McPherson, p. 396: 15,000. Woodworth, p. 72: 17,000. Nevin, p. 61: 17,000.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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