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F8Fは F6Fヘルキャットに続き、グラマン社が開発したアメリカ海軍の第二次世界大戦中の艦上戦闘機。愛称はベアキャット(Bearcat:ビントロングの愛称。また勇敢な闘士という意味がある。)。 小型軽量化及び徹底的に洗練された空力構造、高い防弾性能をもつ機体に大出力のエンジンを搭載し、陸軍航空隊のP-51ムスタングと並び、最強のレシプロエンジン戦闘機、また最強のレシプロ艦上戦闘機と評される事もある。 == 概要 == F8F ベアキャットは、小型の航空母艦から運用できる、最上の運動性と良好な低空性能を持ち、高い上昇率を必要とする迎撃任務を主任務として計画された、アメリカ海軍の艦上戦闘機である。 1943年11月にグラマン社においてG-58の社内呼称で開発が始まり、軍よりはXF8F-1の制式名称が与えられた。試作機は1944年8月に初飛行し、その6ヶ月後には最初の生産機がロールアウトしている。戦時下と言えど戦時急造ではない戦闘機一機種をこれだけの短期間で実戦配備まで持ち込んだとことは、アメリカの高い工業力、工業技術力を象徴している。 先代のF6Fヘルキャットよりも一回り小型(零戦よりもさらに小さい)軽量の機体であるが、反面エンジンはさらに強力なものが使用され、上昇率は3割増しとなっている。この小型の機体に高出力エンジンの組み合わせという設計思想は、イギリス軍に捕獲されたドイツ空軍のFw190に関するレポートが発端であり、機体設計にその影響を受けている。また、F6Fが大型化し護衛空母で使用ができなくなった反省から、小型の護衛空母でも使用可能な戦闘機を目指した結果である。F4Fまでのグラマン戦闘機は、胴体に主脚を収納する設計のため、胴体が太く設計されていたのだが、主脚を主翼に収納するF6Fも同様に胴体が太く設計されていた。主翼面積も無難で失敗の無い設計を目指した結果、過大なものと評されており(ただし結果として日本機に対抗し得る運動性を得たが)、設計には無駄が多かった。本機はその反省から、徹底的に機体設計が洗練された。日本の資料では「F8Fは零戦に対抗するため、その影響で小型化された」とするものが多いが、これは正確とは言えない〔零戦の後継機として開発された烈風は全備重量こそ4.5トン前後でF8Fと同程度だが、機体サイズは大型化しており、小型化を追求したF8Fとは方針の違いが対照的である。機体の小型化で軽量化したアメリカと、防弾や急降下制限速度を犠牲にして軽量化した日本。空母用カタパルトの実用化により艦載機そのものの離着陸性能をさほど考慮せずとも良かったアメリカと、離着陸性能を重視せざるを得ず低翼面荷重の設計を強いられた日本。防弾に劣る日本機を相手にするため火力を妥協したアメリカと、防弾に優れたアメリカ機を相手にするため火力強化を強いられた日本の立場の違いである。また機体を太短くする事で表面積の減少による空気抵抗低減を伝統としたグラマンの設計と、紡錘形胴体による空気抵抗低減を図った三菱(堀越二郎技師)の設計思想の違いでもある。〕。一方、アメリカ海軍の主要な仮想敵は日本海軍であったから、零戦の影響はなかったとするのも極論である。 翼面荷重が大きいために旋回半径では零戦には及ぶべくもないが、大パワーにより旋回率では零戦に優っていた。実戦で対峙した記録は無いが、1944年8月にサイパンの戦いで鹵獲した零戦五二型との模擬空戦にて完勝を収め、開戦以来、零戦の機動性に悩まされてきた米海軍当局者らを歓喜させたと伝えられる。速度などを含めた総合性能では零戦を遥かに凌駕しており、疑いなく当代最強レベルであった。しかしながら、既にさらなる次世代機たるジェット機が台頭してきたため、純粋な戦闘機としては陳腐化が早かった。本機は対戦闘機用としての純粋な性能を追求しすぎた為、小型化によりF6Fより燃料タンクの容量が減り航続距離が低下、戦闘爆撃機としての爆弾搭載量等、戦後に海軍艦上機に要求された“汎用性”という面ではF4U等他の機と比べて劣っていた。第二次世界大戦後に戦闘機のジェット化が進んだ結果、レシプロ機は主に戦闘爆撃機として使われる事になったが、F8Fはその流れに逆行するかたちになり、F4Uコルセアが1950年代初期まで生産が続行された一方、F8Fは同時期には退役がはじまり、1960年代前期には完全に姿を消すこととなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「F8F (航空機)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Grumman F8F Bearcat 」があります。 スポンサード リンク
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