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エドワード "ベアキャット" ライト(Edward "Bearcat" Wright、1932年1月13日 - 1982年8月28日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身〔のアフリカ系アメリカ人。 ロサンゼルス版の第7代WWA世界ヘビー級王者であり、プロレス界における初の黒人世界チャンピオンとして知られる〔〔『THE WRESTLER BEST 1000』P173(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 == 来歴 == 父親は1920年代に活躍したプロボクサーのエド "ベアキャット" ライト。彼自身もベアキャット・ライト・ジュニアのリングネームで1950年代初頭にプロボクサーとして活動していた。 1954年、父親と同じリングネームでプロレスラーに転向し、ベビーフェイスのポジションでニューヨーク地区を主戦場に活動。1960年代初頭には、オハイオ地区にてボボ・ブラジルと黒人タッグチームを組み、クリス&ジョン・トロスのトロス・ブラザーズと抗争を展開した。 その後、ロサンゼルスのWWAに参戦し、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがワシントン大行進にて "I Have a Dream" と演説を行う5日前の1963年8月23日、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得。プロレス界において、黒人初の世界王者となった〔〔。 しかし、黒人チャンピオンに対する当時の風当たりは強く、差別団体からの脅迫を受け、同年12月16日に行われるはずだったエドワード・カーペンティアとの防衛戦を放棄して失踪〔。WWAはライトからタイトルを剥奪し、カーペンティアを新王者に認定した〔。この剥奪騒動には諸説あり、ライトから世界王座を移動させようとしたWWAのシナリオに反発し、白人に負けるブックを拒否したことが原因ともされている〔『フレッド・ブラッシー自伝』P174-178(2003年、エンターブレイン、ISBN 4-7577-1692-3)〕。 以降は一時アメリカ合衆国本土を離れ、カナダのバンクーバー地区やハワイなどで活動。バンクーバーでは1964年4月13日、エンリケ・トーレスをパートナーにドン・レオ・ジョナサン&キンジ渋谷からNWAカナディアン・タッグ王座を奪取した。 その後はパシフィック・ノースウエスト地区を経て、ジム・バーネットが主宰していたオーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリングに進出。同地のトップ・ベビーフェイスだったマーク・ルーインと組み、1966年7月29日にスカル・マーフィー&ブルート・バーナードを破ってIWA世界タッグ王座を獲得した。8月19日にはマーフィーからIWA世界ヘビー級王座を奪取、翌1967年もマーフィーやキラー・コワルスキーを相手に同王座を争った。 1967年の末よりアメリカ本土に本格的に復帰し、サンフランシスコ地区では同年12月2日にレイ・スティーブンスを破りUSヘビー級王座を獲得。翌1968年2月17日にキンジ渋谷にタイトルを奪われるも2カ月後の4月13日に奪還、7月4日にキング・イヤウケアに敗れるまで、サンフランシスコ地区のフラッグシップ・タイトルであるUS王座を保持した〔。 1970年代も各地を転戦し、南部のフロリダ地区では1972年3月28日にボリス・マレンコからブラスナックル王座を奪取、これが最後のタイトル戴冠となった。1973年にはザ・シークの牛耳るデトロイト地区に参戦し、ソニー・キングをパートナーにジート&ベポのザ・モンゴルズなどと対戦。1974年はジム・クロケット・ジュニアが運営するミッドアトランティック地区にてジョニー・バレンタインと抗争した。 キャリア晩年の1975年10月、新日本プロレスに初来日。同年はフロリダでヒールに転向しており、アントニオ猪木とのシングルマッチでもラフファイトを仕掛け、4戦して2敗2無効試合という戦績を残した〔。現役引退後の1976年には、テネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)にてモンゴリアン・ストンパーのマネージャーを務めた。 1982年8月28日、黒人に多い遺伝的疾患である鎌状赤血球貧血症にて死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベアキャット・ライト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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