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ベイスターズ : ミニ英和和英辞書
ベイスターズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ベイスターズ ( リダイレクト:横浜DeNAベイスターズ ) : ウィキペディア日本語版
横浜DeNAベイスターズ[よこはまでぃー えぬ えー べいすたーず]

横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。
神奈川県保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアム専用球場(本拠地)としている。また、二軍〔かつては、「湘南シーレックス」と言う二軍独自の球団名が使われたことがある。〕(イースタン・リーグ所属)の本拠地は同県横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が横浜DeNAベイスターズ総合練習場として同市に設けられている。
== 球団の歴史 ==

林兼商店(後の大洋漁業、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に設立〔『東京日日新聞』1930年7月28日付。〕され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し一躍名をあげる〔。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城河内卓司徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市〔中部兼市は1947年8月から1950年11月まで次男の謙吉副社長とともに公職追放され、長男の謙吉が社長を務めていたが、実質は兼市が経営を掌握しており、プロ球団化も彼の意向によるものであった。〕は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。山口県下関市フランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。
社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「横浜DeNAベイスターズ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yokohama DeNA BayStars 」があります。




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