|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ワーラーナシー(Varanasi、वाराणसी)は、インドのウッタル・プラデーシュ州ワーラーナシー県の県都。人口は約120万人(2011年)。 ガンジス川沿いに位置しヒンドゥー教の一大聖地として、インド国内外から多くの信者、巡礼者、観光客を集めるインド最大の宗教都市である。街の郊外には、釈迦が初めて説法を行ったサールナート(鹿野苑)がある。 バラナシ、ヴァーラーナシー、ヴァーラーナスィー、と各表記がある。また古くは「カーシー国」とも称され、波羅奈国とも称された。ヒンドゥー教・仏教の聖地として重要な都市。かつては英領植民地時代に制定された英語表記の''Benares''の誤読により「ベナレス」とも日本語で称された。 == 歴史 == ワーラーナシーの歴史は大変古く、インドの叙事詩『マハーバーラタ』にもその存在は記されている。紀元前6世紀になると、カーシー王国は、ガンジス川中流に位置するワーラーナシーを首都とし、釈迦より以前の時代には十六大国中最大の勢力を持った国であった。ワーラーナシーはガンジス川中流域の政治、経済、文化、宗教の中心地となる。、バラモンが修行する宗教的な拠点でもあった。この国の王はその巨大な経済力と軍事力を持って一切の諸王の帝王(サッバラージューナム・アッガラージャ )たることを目指した。 紀元前4世紀には、インド初の統一王朝となるマウリヤ朝が成立するとその支配下におかれた。4世紀以降は 主にヒンドゥー教を保護する王朝が続くグプタ朝の治下に置かれ、6世紀にはカナウジ王国(マウカリ朝)に併合された。7世紀前半には、ハルシャ王のヴァルダナ朝の一部を形成した。428年にはカーシー・ヴィシュヴァナート寺院が建設などにワーラーナシーおけるシヴァ崇拝が決定的になる。こうしてこの時代ワーラーナシーは聖地として重要性が決定的になった。ラージプート時代の混乱が続中、ワーラーナシーは11世紀の最後の25年間は、ガーハダヴァーラ朝の首都であった。 12世紀末、アフガニスタンのゴール朝にイスラム教勢力に征服された。その後のデリー・スルターン朝時代においても、トゥグルク朝やローディー朝による破壊を受けた。イスラムの勢力が大きくなり、侵略・破壊が行われ、ヒンドゥー教寺院や仏教寺院、ジャイナ教寺院などが破壊された。16世紀に至るまでイスラム勢力による侵略と破壊が繰り返される。破壊された寺院の跡にはモスクが建設された。 16世紀に成立したムガル帝国のもとでは、3代皇帝アクバルが宗教寛容策を採ったことで知られるように、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒の共存が図られたため、ワーラーナシーの再建が進んだ。 だが、17世紀に厳格なスンナ派である6代皇帝アウラングゼーブが即位すると、再び聖像崇拝禁止の方針がとられ、街の多くの宗教施設が破壊された。 アウラングゼーブが逝去しムガル帝国が弱体化すると、帝国中に無法行為が横行し始めた。ムガル帝国の没落とマラーター王国の隆盛は同時に起きた。ヒンドゥー教を深く信仰していたマラーター人達は、ヒンドゥー帝国の支持者であり、ワーラーナシーに格別の愛着を持っていた。彼らはイスラム教徒の支配によって手ひどい損害を被ったその都市の名声と栄光を回復したいとの願いを抱いていた。マラーター王国はワーラーナシーを領有することはなかったが、様々な宗教活動を通しワーラーナシーに富を注いだ。寺院とガート(沐浴場)の建設、施食所の設置と支援をした。(マラーター王国関係による建設及び再建はダシャシュワメーダ・ガート、マニカルニカー・ガート、ハリシュチャンドラ・ガート等々数多い。) 1725年にムガル皇帝に徴税権を認められたマナサ・ラーム(ヒンドゥー教徒)のもとで、徐々に街の復興が進んでいき、息子のバルワーン・シングはワーラーナシーの代には復興した。1780年には、カーシー・ヴィシュヴァナート寺院も再建された。しかし、18世紀後半よりイギリス東インド会社の進出が本格化し、藩王国としてイギリスの統治下におかれた。ベナレスという呼称は、このイギリス統治時代のものである。現存している建物の多くは、18世紀以降に建てられたものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワーラーナシー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Varanasi 」があります。 スポンサード リンク
|