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ベネデッティ・ミケランジェリ : ミニ英和和英辞書
ベネデッティ・ミケランジェリ[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ベネデッティ・ミケランジェリ ( リダイレクト:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ ) : ウィキペディア日本語版
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ[らん]

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリArturo Benedetti Michelangeli〕, 1920年1月5日1995年6月12日)は、イタリアピアニスト。単にミケランジェリと呼ばれることが多いが(本項でも以下これを用いる)、本来は「ベネデッティ・ミケランジェリ」が姓である。
== 略歴 ==
ブレーシャ地方の出身。アッシジの聖フランチェスコの末裔と自称していた。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めるが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選にとどまった。翌1939年ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから「リストの再来」と賞賛された。
第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍した。
戦後間もなく楽壇に復帰したが、1950年代に入ってから重病を患って一時は復帰が危ぶまれた時期もあった。しかし、1955年ショパンコンクールの審査員及び公式ピアニストに選ばれたことを機に復活。以後、世界中でコンサートを開き、その圧倒的なテクニックと比類のない美しいピアノの音色で瞬く間に名声を確立した。
一方で、非常に強い完璧主義からコンサートのキャンセルを頻発するいわゆるキャンセル魔としても有名になり、次第に年間に「実際に」とり行われた演奏会が10回に満たないという例も珍しくなくなっていった。しかし、その貴重な演奏会が更に評判を呼び、一層ミケランジェリというピアニストを伝説に押し上げて行った。
録音嫌いとしても知られていたが、1970年代以降、ドイツ・グラモフォンからショパンドビュッシーベートーヴェンなどの録音を多数リリースした。
1988年に演奏会の途中で心臓発作で倒れる。翌年には復帰したが、病の後遺症からか完璧な演奏は陰りを見せ、しかし一方で伸びやかな演奏スタイルになる。
初来日は1965年。日本の音楽界に衝撃を与える。以降も数度来日しているが、予定通り日程をこなしたのはこの初来日の時だけで、後はキャンセル魔の評判に違わぬ騒動を引き起こすこととなる。1973年に2度目の来日を果たした際は、コンディションを理由に演奏会の日程・会場を変更したり、中止となった公演もあった。翌1974年は前年の代替公演のために来日した。、日本に持ち込んだ2台のピアノ双方のコンディションに満足できず、やむなくヤマハのピアノを使用したがNHKホールでの1公演だけであり他の公演は全てキャンセルした。開催されたその公演も暖房不使用のためコート着用、また後半にプログラムされていたベートーヴェンの作品101は弾かれなかった(尚ミケランジェリは生涯この曲を公開演奏していない)。結果、怒った日本の招聘元である松岡企画がミケランジェリの持ち込んだ二台のスタインウェイを差し押さえるなどして、日本との関係が悪化、しばらく来日が途絶える結果となる。1992年が最後の来日となった。チェリビダッケとの2度の共演、3度のリサイタルが予定されていた。チェリビダッケとの共演及び最初のリサイタルは予定通りこなすものの、次のリサイタルは会場・日程を変更して開催し、3回目のリサイタルはキャンセルとなった。翌1993年にも来日計画があったが、持病の心臓病の悪化からドクター・ストップがかかり、幻に終わった。
最後の演奏会は1993年5月7日ハンブルクにおいて行われた。1995年、病気の亢進によりルガーノにて他界した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Arturo Benedetti Michelangeli 」があります。




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