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ベネヴェント公国(ベネヴェントこうこく、)は、中世におけるイタリア最南端のランゴバルド系公国で、ベネヴェント、メッツォジョールノ(南イタリア)を中心としていた。ランゴバルド三侯国のひとつ。 == 歴史 == 570年に、ランゴバルド系公国の諸候の中で、が最初に独立を果たした。 (、662年 - 671年)はランゴバルド王も兼ね、当時公国はランゴバルド王国と密接に関わっていた。774年にカール大帝の侵攻でランゴバルド王国が滅亡すると、アリキス2世はベネヴェント侯(princeps)を名乗るようになる。 839年にベネヴェント侯シカールが暗殺された後、財務官であったラデルキス1世が侯位についたが、シカールの弟シコヌルフォとの間で侯位継承争いが起こった。そこで、皇帝ルートヴィヒ2世の調停により、849年に侯国はラデルキス1世のベネヴェント侯国と、シコヌルフォのサレルノ侯国とに分裂した〔山辺、p.37-38〕。873年、東ローマ帝国が支配権を回復したが〔『カラー世界史百科 増補版』、平凡社、1985、p.67〕、895年にヴィドー家のスポレート公グイード4世が東ローマ軍を撤退させ、897年までベネヴェント侯国を支配した。短い独立期間の後、900年にはカプア侯アテヌルフォ1世に占領され、981年のパンドルフォ1世(鉄頭侯)の死までカプア侯による支配を受けた〔山辺、p.39-40〕。その間、915年のガリリャーノの戦いではキリスト教同盟軍に参加してファーティマ朝と戦い、勝利した。981年、ベネヴェント侯国はカプア侯国から分裂し、再び独立した。 11世紀前半になると、ノルマン人が南イタリアへと侵攻、それに対処するため1047年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は南イタリアに入り、カプアでノルマン人の所領の承認を行った。ベネヴェントはその際に皇帝軍を入れず、教皇から破門された。それ以降、ベネヴェントを含めた南イタリアはノルマン人の支配下に入った。1050年にはベネヴェント侯パンドルフォ3世が追放され、翌1051年に教皇領となった〔山辺、p.80〕ものの、事実上ノルマン人の支配下にあった〔瀬原、p.281〕。教皇レオ9世はベネヴェントを奪回するため軍を組織し、1053年6月18日にチヴィターテでノルマン人と戦ったが、教皇軍は敗北し、レオ9世は捕われて翌年春までベネヴェントに置かれた(チヴィターテの戦い)。レオ9世は帰国後間もなく死去した。 1077年11月18日、教皇からベネヴェント支配を任されていたランドルフォ6世が死去した〔山辺、p.136〕。同年のうちに、ノルマン人の傭兵ロベルト・イル・グイスカルドがベネヴェントを征服、1130年にルッジェーロ2世のもとシチリア王国が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベネヴェント公国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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