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__NOTOC__ ベルグテイ(1172年? - 1251年?)〔『モンゴル秘史 1 チンギス・カン物語』、119頁〕は、モンゴル帝国の皇族である。 イェスゲイ・バアトルの側室アバカイの子で、ベクテルの同母弟で、チンギス・カン(テムジン)の異母弟にあたる。 漢文史料では別里古台、別勒古歹、便古得那(顔)と表記される。フランスの東洋学者ポール・ペリオによれば、名前はモンゴル語で「印」「質草」を意味する「belge」のテュルク語形であるbelgüに由来するとされる〔。 == 生涯 == 兄のベクテルとともに体格が大きく、腕力に優れた人物と伝えられる〔。父の死後に同母兄のベクテルが後継者争いで、異母兄のテムジンに射殺されると、以降からテムジンに従った。 創成期のモンゴルにおいては、メルキト族討伐、ナイマン族討伐に従軍した。1206年のチンギス・カンの第二次即位ではジャルグチに任じられ、宗族を監督した〔井ノ崎「ベルグティ」『アジア歴史事典』8巻、238頁〕。オノン川、ケルレン川の流域を遊牧地とし、3,000人の部民を領有した〔。後にジョチ・カサル、カチウンの子イルチダイ、テムゲ・オッチギンらチンギスの同母弟とその子孫と同様に遼東に分領(ウルス)を与えられる。ベルグテイは広寧路と恩州二城を領有し、広寧王を称した。 他の兄弟よりも長寿であり、1251年のモンケの即位式にも出席したといわれる〔。 罕禿忽、也速不花、口温不花の三子を残した。1460年代の北元の有力者モーリハイ(毛里孩)はベルグテイの末裔といわれる〔岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店, 2010年11月)、69-70頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルグテイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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