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ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことをきっかけに、ベルリンの壁の国境ゲートが開放され、翌11月10日には東西ベルリン市民によって実際に壁の破壊が開始された一連の事件のこと。略称として壁崩壊()という。東欧革命を象徴する事件として有名である。 == 前史 == ===東ドイツの停滞=== 第二次世界大戦後の、ドイツのソビエト連邦とイギリス、フランス、アメリカ合衆国による東西分割占領によって生まれた分断国家の東ドイツは、ソ連からの大きな経済援助や西ドイツからの借款を受けたことにも助けられ、社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれた。 またその中でも「ベルリンの壁」で東西に断絶された東ベルリンは、「ベルリン危機」などで東西冷戦の最前線にさらされながらも、西側諸国の支援の下で繁栄する西ベルリンに対抗すべく「社会主義のショーウィンドウ」としての立ち位置から、かつ東ドイツの首都として繁栄を続けていた。 しかし、1970年代後半の第二次石油危機以降、西ドイツをはじめとしてイギリスやアメリカ、日本をはじめとする西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済、党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。1980年代には東ドイツ経済も世界屈指の経済大国となった西ドイツには大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった〔南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P103-104 〕。 一方、ドイツ社会主義統一党(SED)のエーリッヒ・ホーネッカー書記長(国家評議会議長兼務)は、ソ連の歴代政権から支援を受けつつ、ハンガリー人民共和国やポーランド人民共和国で社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。 他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の消滅を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、1980年後半に東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていたのである〔三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P3-4〕。 1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。しかし、ホーネッカーら東ドイツ首脳部は強硬姿勢を崩さず、1988年にはペレストロイカを伝えるソ連の雑誌『スプートニク』を発禁処分とした。これはソ連の不興を買ったのみならず、東ドイツ内の知識人の不満を一気に高めることになった〔南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P106 〕。 1987年にアメリカ大統領ロナルド・レーガンがベルリンを訪問した際、ベルリンの壁の前で演説し、「Mr. Gorbachev, tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と演説で訴え、2年後の壁崩壊に影響を与えた要因の一つとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルリンの壁崩壊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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