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ベルリンフィル : ミニ英和和英辞書
ベルリンフィル[ふぃる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

フィル : [ふぃる]
 【名詞】 1. fill 2. (n) fill

ベルリンフィル ( リダイレクト:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ) : ウィキペディア日本語版
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団[べるりんふぃるはーもにーかんげんがくだん]

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ドイツ語:)は、ドイツベルリンフィルハーモニーに本拠を置くオーケストラである。
正式な略称はBPhであるが、かつては Berliner Philharmonisches Orchester という名称も併用していたため(後述)、BPOと略されることがある。
== 歴史 ==

設立は1882年5月1日で、ベンヤミン・ビルゼが監督するオーケストラから脱退したメンバー54人が母体となり、6人のメンバーを加えて自主運営楽団として発足した。団員の平均年齢が30歳未満という若い人中心のオーケストラであった。最初の定期演奏会は1882年10月23日、フランツ・ヴェルナーの指揮で行われた。
1884年にはブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を弾いた。またドヴォルジャークも自作の指揮を行った。1887年にヘルマン・ヴォルフがハンス・フォン・ビューローを招き、以後、ベルリン・フィルは急速に成長し、この数年の間にハンス・リヒターフェリックス・ワインガルトナーリヒャルト・シュトラウスグスタフ・マーラーヨハネス・ブラームスエドヴァルド・グリーグらが指揮台に立っている。
1895年に、アルトゥール・ニキシュが常任指揮者に就任。1895年12月13日には、マーラーが自身の交響曲第2番「復活」のはじめの3楽章の初演を指揮した。
1922年1月23日にニキシュが亡くなると、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが次の常任指揮者に就任し、ヨーロッパ各地で演奏活動を行った。フルトヴェングラーはナチスの政策を芸術家の立場から批判(ヒンデミット事件)、メンデルスゾーンを演奏会で取り上げたり、ユダヤ人演奏家への援助に尽力した。ベルリン・フィルは第二次世界大戦中も停電・空襲が頻発するなか活動を続けた(この間の演奏会の多くはラジオ放送用にテープレコーダーで収録されていたので、60年以上経った現在でも聴くことができる。有名なものとしてはフルトヴェングラー指揮によるベートーヴェン交響曲第3番第5番第6番第7番第9番や、ブルックナー交響曲第5番第9番エトヴィン・フィッシャーのピアノによるブラームスピアノ協奏曲第2番がある。放送局ではステレオ録音も行っていたが、ベルリン・フィルの演奏はいまのところ確認されていない)。
1944年1月には旧フィルハーモニーが爆撃で焼失し、以後、ベルリン国立歌劇場、アドミラル・パラストと会場を移しながら演奏会を行う。フルトヴェングラーは1945年2月にスイスに亡命したが、ベルリン・フィルはベルリン陥落の2週間前まで演奏会を行っていた。
戦後、フルトヴェングラーは非ナチ化裁判にかけられることになり、その終了まで指揮活動を禁止されたため、オーケストラはレオ・ボルヒャルトの下で活動を続けたが、1945年8月23日にボルヒャルトが米軍兵士の誤射で不慮の死を遂げた。それを継いだのはセルジュ・チェリビダッケで、チェリビダッケは若年ながら才気あふれる指揮で同楽団を導く一方、フルトヴェングラーの無罪獲得にも死力を尽くした。その甲斐もあり、フルトヴェングラーは1947年の5月末に「歴史的復帰演奏会」でベルリン・フィルと再会し、1954年11月に亡くなるまで指揮を続けた。演奏会はティタニア・パラスト(映画館を改修したもので、現存)が主な会場であった。フルトヴェングラーとベルリン・フィルのレコードは、戦前のSP録音や前述の戦時中ライブ録音、ブラームスの交響曲、シューベルト交響曲第8(9)番「グレート」(1951年)、シューマンの交響曲第4番(1953年)等のスタジオ録音、戦後の「歴史的復帰演奏会」をはじめとする放送局による演奏会のライブ録音が有名である。フルトヴェングラー以外でも、クナッパーツブッシュフリッチャイなどの放送局音源が多数発掘され、CD化されている。
フルトヴェングラーの死後、常任指揮者にはセルジュ・チェリビダッケが就任すると思われていたが、リハーサルにおいて過度な要求をする彼と楽団との間には亀裂が生じていた。1952年から一時期 フルトヴェングラーが終身指揮者として復帰。1955年の初のアメリカ公演にはヘルベルト・フォン・カラヤンが同行し、自身が47歳の誕生日を迎えた4月5日に終身常任指揮者となった。チェリビダッケはベルリン・フィル復興の功績による叙勲当日(翌日説も有る)を最後にベルリン・フィルと決別し、カラヤンの生前は決してベルリン・フィルを指揮しなかった。カラヤン死後、「(ヴァイツゼッカー)大統領要請」という形で最晩年に指揮したが、本人曰く 「練習不足」により低音パートの一部が一楽節ズレるという失態を演じている。
カラヤンは楽団員の国際化を進めるほか、精力的に録音活動を行った。カラヤン=ベルリン・フィルの録音は、膨大な数に登る。
1963年に現在の本拠地であるフィルハーモニーが完成し、落成記念演奏会は10月15日に行われた。1967年、カラヤンが創設したザルツブルク復活祭音楽祭では、ベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入って演奏するようになった。またカラヤンは楽団の質を高めるため、楽団員による小編成の室内楽の活動も奨励し、いくつもの演奏団が生まれた。カラヤン時代には、カール・ベームによるモーツァルト交響曲全集オイゲン・ヨッフムによるブルックナー交響曲全集(一部バイエルン放送交響楽団)、ラファエル・クーベリックによるドヴォルザーク交響曲全集など、カラヤン以外の指揮者とも重要な録音が残された。就任以来四半世紀にわたりカラヤンの黄金時代が続いたが、いわゆる「ザビーネ・マイヤー事件」以降は溝が深まり、死去直前の1989年4月に辞任した。
カラヤンの後任の選出にあたっては、楽団員が自分たちで常任指揮者を選ぶ方式となった。これはベルリン・フィル特有のもので、1989年に初めて導入され、ベルリン市内で行われる非公開の会議は、その方法になぞらえて「音楽界のコンクラーヴェ」とも呼ばれ、各種報道等においてもこの比喩が用いられる。カラヤン以降は、同方式によって首席指揮者が選ばれている。
9代目の常任指揮者を決める楽団員投票で、クラウディオ・アバドが、有力な対抗馬で半ば「当選確実」とも一部でささやかれていたロリン・マゼールを破って就任した(敗れたマゼールはショックで1999年までの9年間、ベルリン・フィルと決別した)。任期全般でレパートリーを広げることに尽力したアバドではあったが、自身の健康面の問題で一時代を築けず、2002年のシーズン限りで辞任した。後任の最大有力候補はサイモン・ラトルダニエル・バレンボイムの2人だったが、楽団員による投票によりラトルが常任指揮者に選ばれた。ラトルは、ベルリン・フィルを政府から完全に独立させた。
60・70年代の世界ランキングではカラヤンが、西ドイツからの潤沢な資金を利用して一流の奏者を掻き集め、独裁的な運営で、少なくとも技術的には世界最高の水準とトップクラスの知名度を誇った。西ベルリンのオーケストラであったベルリン・フィルは、西ベルリン、西ドイツ、そして西側の広告塔的存在でもあった。ドイツ統一後は資金的な特別扱いはなくなり、良い奏者も各地の放送交響楽団や教授などの教職活動などに分散するようになり、かつてのような隔絶した存在ではないと言われるが、音楽大国の首都を代表するオーケストラとして依然人気は高い。2008年の独グラモフォン誌による世界オーケストラ・ランキングでは2位、同年の日本「レコード芸術」誌のランキング、2010年の日本「モーストリー・クラシック」誌のランキングでは共に1位である。3誌ともウィーン・フィルコンセルトヘボウ管とベスト3を占めており、この三者の上位は戦後の定番である。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Berlin Philharmonic 」があります。




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