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ベルリン王宮(ベルリンおうきゅう、Berliner Stadtschloss)は、かつてドイツの首都ベルリンの中心部にあった宮殿。1701年からはプロイセン王国国王の、1871年からはドイツ帝国皇帝の居城であった。 1918年のドイツ革命で君主制が滅びて以来、王宮は博物館として利用されてきたが、1945年の英米軍の空襲で焼失し、その廃墟は1950年にドイツ民主共和国(東ドイツ)政府によって取り壊された。 しかしドイツ再統一以来ベルリン王宮の再建が提案され続け、2013年から再建工事が本格的に始まった。王宮の外観を復元した新しい複合文化施設の名称は、「フンボルトフォーラム」(Humboldtforum)となる予定である。 == ドイツ帝国成立までのベルリン王宮の歴史 == ドイツ語の「Stadtschloss」は、都市を意味する「Stadt」と城を意味する「schloss」に分解できる。ベルリン王宮はもともとは城あるいは要塞であり、シュプレー川を挟んで東にベルリン、西にケルン(Cölln、後にベルリンに吸収された)という双子の小都市があった時期、橋を守るようにケルン側に建てられていた。城が建っていたケルンの街はフィッシャー島(Fischerinsel、現在の博物館島)と呼ばれる中州の上にあった。 ベルリン王宮ができる前、この周囲の都はブランデンブルクにあり、ベルリン・ケルンには1310年頃に建てられたホーエス・ハウスと呼ばれるゴシック様式のレンガ造り三階建ての城がベルリン側の東の端に建っていた。15世紀に入り、ホーエス・ハウスはブランデンブルク辺境伯の居城となった。 1443年、フリードリヒ2世鉄歯侯は新しいベルリン市城をケルン市街の北側に築いた。これが後のベルリン王宮である。この城および兵営の目的は、中世以来の都市の特権を手放そうとせず中央集権を進める君主に従おうとしないベルリン市民に、選帝侯の権威を見せ付けるためのものであった。1448年頃、選帝侯と対立を深める市民はホーエス・ハウスとベルリン市城建設現場を襲う事件を起こすが、1451年に選帝侯はベルリン市城に入居した。この城はベルリン市街の対岸にあたる中州の東側、シュプレー川に沿って建つ三階建てで長さ88mもの長い建物であり川に礼拝堂が突き出しており、市民からは「ケルン威圧城」と呼ばれ嫌われた。この東翼がベルリン王宮の最初に建てられた棟である。 宗教改革の最中の1538年、ヨアヒム2世ヘクトルは城の周囲の建物を取り壊し、主任建築家のカスパル・タイス(Caspar Theiss)にイタリアルネサンス様式のより大きく立派で華やかな装飾の施された宮殿を造るよう命じた。タイスは既存の建物の南のケルン市街に面するように新たな翼を造りその前に広場を作った。この増築の結果城はL字型に増築され、さらに中州中央にもうひと棟増築され城は「コ」の字型になった。城の前の広場は馬上槍試合などの開催されるベルリン・ケルンの中心地となった。16世紀末のヨハン・ゲオルクはイタリア人建築家リナール伯ロクス(Rochus Graf zu Lynar、イタリア語:Rocco Guerrino di Linari、ロッコ・グェリーノ・ディ・リナーリ)にさらに西翼と北翼を作らせ二つの中庭のある「日」の字型の配置とした。東翼の北のシュプレー川沿いには「薬医棟」(ホーフアポテーケ、Hofapotheke)と呼ばれる錬金術の実験棟を作らせた。 三十年戦争(1618年 - 1648年)の後、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯はオランダ人建築家ヨハン・ネリンク(Johann Nering)を雇い宮殿をより壮麗に改築した。彼の治世の終わりごろ、王宮の北側の菜園・薬草園はオランダ風の幾何学的庭園・ルストガルテンとなり、王宮内には大きな舞踏会室やブラウンシュヴァイク・ギャラリーなどが完成した。 1699年、フリードリヒ3世(1701年にプロイセン王に即位し「フリードリヒ1世」となる)はベルリン市城をバロック式王宮に改造する野望を持ち、プロテスタント・バロックを代表する建築家でもとは彫刻家であったアンドレアス・シュリューター(Andreas Schlüter)を王宮建築監督官とする契約をし宮殿をバロック様式に改築させた。彼のもと、既存の建物は秩序正しく要所要所の門に4本のコリント式大円柱を配したバロック的古典主義の外観を備えるようになり、宮殿内の広間や階段室もバロック式の装飾に彩られた。しかし1706年、王宮北西端の給水塔を「鋳造所塔」(ミュンツトゥルム、Münzturm)に改造する工事が軟弱な地盤のために失敗し、この責任を取ってシュリューターは解任された。より豪華で大きな宮殿の建築案を提出したライバル建築家ヨハン・フリードリヒ・エオザンダー・フォン・ゲーテ(Johann Friedrich Eosander von Göthe)が後を継ぐ。シュリューターの名は彼の手がけた円柱や立像が立ち並ぶバロック様式の中庭シュリューターホーフに、エオザンダーの名は八角形のドームを頂いたバロック様式の西門・エオザンダー門にそれぞれ残った。凱旋門式の入口と大きくうねるブロークン・ペディメントを載せたエオザンダー門の三階部分にはエオザンダー・カペレという八角形の大きな礼拝堂があり王族の挙式などが開かれ、隣の「白の間」(Weißen Saal)はプロイセンの歴史の舞台となった。 1713年にプロイセン王となったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、「兵隊王」のあだ名どおり軍事力の増強に力を注ぎ、ルストガルテンを練兵場に変えてしまい、王宮建設を進めていた職人や芸術家達を解雇した。このためエオザンダーの建築案も結局部分的にしか実現しなかったものの、18世紀半ばには宮殿の外観はほぼ後年の通りの姿になった。 最後の増築となったのは1845年から1853年にかけて、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の時期にエオザンダー・カペレの上に建てられた大ドームで、カール・フリードリッヒ・シンケルの設計に基づき、その弟子フリードリッヒ・アウグスト・シュテューラーが手がけたものであった。これにより礼拝堂は巨大ドームの下の大空間となった。これ以後、宮殿の外観に大きな変化はなかった。しかし内部は、ゲオルグ・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフらによって大きく手が加えられている。 ベルリン王宮はプロイセンにおける1848年革命の主舞台となった。自由主義者や市民らは、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に宛てた憲法制定・自由主義改革・ドイツ統一を求める嘆願書を手に王宮の前に結集し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は王宮前に集まった大群衆に要求を受け容れる約束をした。3月18日には王宮前での大きなデモが流血の暴動となり、市街戦に発展した。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はプロイセン欽定憲法を制定したものの、自由主義改革は行わず専制を続けた。こうしてベルリン王宮はベルリン市民からプロイセンの専制のシンボルとみなされるようになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルリン王宮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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