|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 朝 : [あさ, ちょう] (n-adv,n-t) morning
ベンガル・スルターン朝(ベンガル・スルターンちょう、英語:Bengal Sultanate)は、東インドのベンガル地方に存在したイスラーム王朝(1342年 - 1531年)。ベンガル王国とも呼ばれる。首都はガウル(ゴウル)とパーンドゥアー。 ==歴史== ===前期イリヤース・シャーヒー朝=== デリー・スルターン朝のトゥグルク朝の時代、1330年代にムハンマド・ビン・トゥグルクが失政を重ねたことにより、各地で反乱が起きた。南インドではすでに、1334年にマドゥライ・スルターン朝というムスリム王朝が成立し、1336年にはヒンドゥー王朝のヴィジャヤナガル王国が成立するなど、トゥグルク朝の広大な領土は解体しつつあった。 そして、1342年にベンガル地方の長官シャムスッディーン・イリヤース・シャーもトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を建国した(前期イリヤース・シャーヒー朝)〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕。 しかし、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のためベンガルへと軍を進め、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーの要塞に籠城したため〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕、1354年にトゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。 その息子シカンダル・シャーの時代、1358年にフィールーズ・シャー・トゥグルクが再びベンガルに攻めてきたが、トゥグルク朝の軍は苦戦し、1359年に和平協定が結ばれベンガル王国は独立を認められた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕。その後、1389年にシカンダル・シャーはその息子ギヤースッディーン・アーザム・シャーによって殺害された〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕。 ギヤースッディーン・アーザム・シャーは1405年、1407年に明の永楽帝に使者を送り朝貢するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.167〕。また、彼はメッカ、メディナのマドラサ建設費用を負担している〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕。 1410年、ギヤースッディーン・アーザム・シャーは死亡し、有力な家臣の一人でヒンドゥー教徒のラージャ・ガネーシャが政治の実権をもつようになった。その後もラージャ・ガネーシャの専横は増し、1414年にシハーブッディーン・バーヤズィード・シャーを殺害し、同年にはその息子アラーウッディーン・フィールーズ・シャーも退位させて王位を簒奪した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕。 こうして、前期イリヤース・シャーヒー朝に代わり、新たにラージャ・ガネーシャを祖とするラージャ・ガネーシャ朝が成立した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベンガル・スルターン朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|