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ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi, 1746年1月12日 - 1827年2月17日)は、スイスの教育実践家、シュタンツ、イベルドン孤児院の学長。フランス革命後の混乱の中で、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事し、活躍の舞台として、スイス各地にまたがるノイホーフ、シュタンツ、イフェルドン、ブルクドルフがなどが有名である。 一部の研究者は、「ペスタロッチー」と表記するが、ドイツ語およびイタリア語の発音では「ペスタロッツィ」が正確である。妻はアンナ・シュルテス(1764年に結婚)、息子および、孫にゴットリープがいる。 ==人物== ペスタロッチはイタリア北部のロンバルディア州ソンドリオ県にあるキアヴェンナにルーツを持つイタリア系の新教徒の医師の3人兄妹の真ん中の子として、チューリヒで生まれた。1751年に父が病死し、1764年にチューリヒ大学に入学した。 チューリヒ大学を卒業したペスタロッチは、貧農を救助するために農業に携わり、母方の叔父からの援助で農場ノイホーフを創設するが、後に事業に失敗して1774年に、孤児や貧困の子供のための学校を設立した。1800年にスイス政府の依頼で、全寮制の校長に就任した。 彼は基礎的なものから高度なものへという、直観教授、労作教育の思想は、当時のヨーロッパでは高い知名度を持ち、多くの期待を寄せられた。特に当時のドイツからは様々な人物が、教えを乞いに彼のもとを訪れた。なかでも、フリードリヒ・フレーベル、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトがその教育史上の意義としては群を抜いて有名であり、また重要である。ペスタロッチの教育の実践は主として初等教育段階のものであったが、それをさらに幼児教育へと応用、展開したのはフレーベルの功績であり、また大学教育の場での教育学へとそれを整理、発展させたヘルバルトの功績も大である。初等教育のやり方の礎は、ほとんど彼によって築かれたといってもよい。 著書に、『隠者の夕暮』(1780年)、『リーンハルトとゲルトルート』(1781年 - 87年)、『ゲルトルートはいかにその子を教えたか』(1801年)、『白鳥の歌』(1826年)などがある。『隠者の夕暮』は、そのタイトルから晩年の遺作のように思われがちだが、初期の教育実践で失敗した後の自己告白である。 また、同時代イギリスで、工場経営者ながら、幼少の子供の工場労働を止めさせ、性格形成学院を設立した空想的社会主義者であるロバート・オウエンも、彼の学校を訪問したことがある。 1827年にアールガウ州ブルックで、死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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