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ペニカンプ (''Pennekamp'') は、アメリカ合衆国で生まれ、フランスで調教を受けた競走馬。フランス、イギリスで出走し通算7戦6勝。1995年の2000ギニーをはじめG1を3勝。現役引退後は種牡馬となった。 ※文中の馬齢は当時の日本で一般的であった数え年ではなく、現在使用されている方法に換算して表記する。 == 戦績 == シェイク・モハメドの持ち馬で、フランスを代表する調教師アンドレ・ファーブルの管理のもと、1994年にデビュー。G1サラマンドル賞(ロンシャン競馬場7ハロン)、さらにイギリスに遠征してG1デューハーストステークス(ニューマーケット競馬場7ハロン)まで4連勝。しかし、カルティエ賞最優秀2歳牡馬のタイトルは、やはり無敗のままG1レーシングポストトロフィーを12馬身差で圧勝したイギリスのセルティックスウィングに譲った。 セルティックスウィング陣営が「ニジンスキー以来のイギリス三冠馬を目指す」と表明すると、ペニカンプ陣営はそれを阻止すべくイギリスの三冠レースに出走することを表明。3歳となった1995年はフランスの準重賞ジェベル賞を勝ち、無敗の5連勝。セルティックスウィングも前哨戦を勝って、2頭が無敗のままクラシック第一関門の2000ギニーに出走した。中団を進むセルティックスウィングをマークしたペニカンプは、セルティックスウィングが先に仕掛けたところを抜群の瞬発力で交わし、差し返したセルティックスウィングをアタマ差抑えてクラシックホースとなった。 エプソムダービーでは、堅い馬場を嫌ったセルティックスウィング陣営が追加登録料を払ってジョッケクルブ賞(フランスダービー)に向かうこととなり、ペニカンプは本命として出走した。しかし、レコード勝ちを収めたラムタラから20馬身以上離された11着と、初の敗北は大敗となった。しかも右前脚の亀裂骨折が判明し、休養に入った。 その後は1996年の第1回ドバイワールドカップに出走するプランもあったが、直前で脚部不安を発症。6月に引退・種牡馬入りが発表された。ライバルのセルティックスウィングもアイリッシュダービーで8着に敗れ負傷し、結果的にそのレースを最後に現役を引退。 種牡馬としては、現時点ではアレキサンダースリーディー (Alexander Three D) がイギリスのG3パークヒルステークスを勝った程度で、シャトルサイヤーとして北半球・南半球の双方でG1優勝馬を産み出したセルティックスウィングに遅れをとった感がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペニカンプ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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