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ペリー上陸記念碑(ぺりーじょうりくきねんひ)は〔記事名は横須賀市教育委員会(2007)p.84により、横須賀市指定重要有形文化財の正式登録名であるペリー上陸記念碑とする。〕、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しの地となった神奈川県横須賀市久里浜に、ペリー上陸を記念して建立され、1901年(明治34年)7月14日に除幕された記念碑である。 == 概要 == 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いるアメリカ海軍の艦隊が浦賀沖に来航した。ペリーはフィルモア大統領の国書を携えており、日本側を威圧しながら国書受け取りを要請した。ペリーの強圧に屈した幕府は長崎での対応を諦め、浦賀の隣の入江である久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取ることになった。1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、ペリーは久里浜に上陸して国書を日本側に引き渡した。 ペリーの久里浜上陸後47年を経た1900年(明治33年)10月、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー(Lester A. Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れた。47年ぶりに久里浜を訪れたビアズリーは、ペリー来航を記念する事物が全く無いことに落胆した。ビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席などで、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾とする意見を表明した。ビアズリーの意見に感銘した米友協会はさっそくペリー上陸記念碑の建設を決定する。米友協会は久里浜の現地見分や募金の呼びかけなど記念碑の建設に尽力し、碑文の揮毫は伊藤博文に依頼した。 1901年(明治34年)7月14日、日米両海軍の軍艦、そして桂太郎首相ら大勢の来賓を招き、ペリー上陸記念碑の除幕式が盛大に行われた。ペリー上陸記念碑は日米友好のシンボルとしての役割を果たしていたが、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカに宣戦して日米は敵国同士となり、やがて戦況が悪化する中で、ペリー上陸記念碑は人々の間に高まってきたアメリカ憎しの感情の格好のターゲットとなった。1944年(昭和19年)には、横須賀市の翼賛壮年団が中心となってペリー上陸記念碑の破壊運動が行われるようになり、1945年(昭和20年)2月8日、ついにペリー上陸記念碑は倒される。 しかし同年8月15日には終戦となり、11月には碑の再建工事が行われた。1947年(昭和22年)7月14日、ペリー上陸記念碑前でペリー上陸95周年記念式典が行われ、これを機に毎年7月半ばには久里浜ペリー祭りが行われるようになった。1953年(昭和28年)にはペリー来航100周年が盛大に祝われ、その後記念碑周辺の公園化、ペリー記念館の建設がなされ、記念碑は再び日米友好のシンボルとしての役割を果たすようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペリー上陸記念碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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