|
ペルニク(ブルガリア語: / ''Pernik'')はブルガリア西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ペルニク州の州都である。ヴィスキャル山( / ''Viskyar'')、ヴィトシャ山( / ''Vitosha'')、ゴロ・ブルド山( / ''Golo Bardo'')にはさまれたペルニク渓谷の中にあり、ストルマ川()の両岸に広がっている。 町では毎年1月、スルヴァ国際仮装大会(The Surva International Festival of the Masquerade Games)が開かれる。ペルニクにはPFKミニョル・ペルニク(PFC Minyor Pernik)とFKメタルルク・ペルニク()の2つのサッカー・クラブがある。 == 歴史 == この地はかつては紀元前4世紀に築かれたトラキア人の要塞であった。後に古代ローマ人の居住地となった。後期新石器時代からこの地にトラキア人がいたことを示す豊富な考古学的な資料が残されている。この時代のバルカン半島中部で最も豊かな陶器のコレクションが歴史博物館に保存されている。また、健康や医学の神であるアスクレーピオスやヒュギエイアに捧げられた、多くのレリーフや彫刻が保存されている。これらはこの地にある鉱泉への畏敬を示したものである。 ペルニクは9世紀初頭に、重要な要塞の一つとして第一次ブルガリア帝国のものとなった。ペルニクの名前はスラヴ神話の神・ペルーンに由来しており、その語尾にスラヴ語の地名の接尾辞''-nik''がついてペルニクとなった。ペルニクの名前は9世紀に初めて文献に記録されている。 11世紀のブルガリア帝国のサムイルによる東ローマ帝国への抵抗では、ペルニクの要塞は決定的な役割を果たした。当時のペルニクを支配していたクラクラ公( / ''Krakra'')は、東ローマによる包囲攻撃に何度も耐えた。後に、町はラスカの大公ステファン・ネマニャによって占領された。 1396年から1878年まで、町はオスマン帝国の支配下となった。この時代、ペルニクは完全に帝国の内側にあり、要塞としての重要性は低下した。オスマン帝国からの独立後、ペルニクは小さな畜産の町であった。 20世紀、ペルニクは炭鉱と重工業の町として急速に発展した。ペルニクの炭鉱が開発されるまでの間、石炭はイギリスのカーディフから運ばれてきた。 ブルガリアの社会主義政権時代、1949年から1962年までブルガリアの共産主義指導者ゲオルギ・ディミトロフの名をとって、ディミトロヴォ( / ''Dimitrovo'')と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペルニク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|