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ペーター・ファン・ペルス : ミニ英和和英辞書
ペーター・ファン・ペルス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ペーター・ファン・ペルス : ウィキペディア日本語版
ペーター・ファン・ペルス[ちょうおん]

ペーター・ファン・ペルス(Peter van Pels、1926年11月8日1945年5月5日)は、『アンネの日記』の著者アンネ・フランクとともにオランダアムステルダム市のプリンセンフラハト263番地の隠れ家に暮らしていた少年。アンネの恋人だった。アンネは日記の上ではペーター・ファン・ペルスを「アルフレート・ファン・ダーン」と記述している(アンネは日記の出版を目指していたのでその時に備えて登場人物を仮名にしていた)。
== 経歴 ==
ペーターは、ドイツ中部オスナブリュックユダヤ系ドイツ人家庭に生まれた。父はヘルマン・ファン・ペルス。母はアウグステ・ファン・ペルス。父母ともにユダヤ系ドイツ人であった。
ナチス党の政権掌握でドイツでユダヤ人迫害がはじまるとファン・ペルス一家はドイツから脱出し、オランダのアムステルダムへと亡命した。しかし第二次世界大戦がはじまるとオランダもナチス・ドイツに占領されてしまい、再びファン・ペルス家に危険が迫ってきた。ペーターの父ヘルマンは同じくドイツを脱出したユダヤ人で仕事のパートナーだったオットー・フランク(アンネの父)と一緒にアムステルダム市の隠れ家に入ることとなった。フランク一家は1942年7月6日に、ペーターのファン・ペルス一家は1942年7月13日にそれぞれ隠れ家に入っている。隠れ家での2年にわたるフランク家との共同生活のなかでペーターは、フランク家の次女アンネ・フランクと恋仲になる。
アンネの日記にペーターのことが書かれるのは、1942年8月14日付けの記述が最初である。しかしこのときアンネはペーターについて「グズではにかみ屋で不器用」「面白い遊び相手にはなりそうにありません」などと書いており、第一印象はかなり悪かったようだ。またそれ以降もしばしば「彼を相手にする人はいません」などと冷たい書き方をしている。しかし1944年に入ったころからアンネはペーターと一緒に過ごすことが多くなり、日記も彼に関する記述が増えていく。彼を表す表現も「人一倍内気」などと優しくなり、さらに2月半ば頃からはペーターを本格的に異性として意識する記述が増えていく。2月27日付けの記述では「朝早くから夜遅くまで、ペーターのことを考えるばかりで他のことは手に付きません。寝るときは彼の面影をまぶたに描きながら眠り、彼のことを夢に見、目を覚ました時にも彼が私を見つめているのを感じます」「私の良識なるものがいつまでこの強いあこがれを抑えておけるものか自分でもわかりません」と書かれている。そして1944年4月16日付けの記述ではペーターからアンネに初めてキスがあった事が書かれている。さらに二人が性的なことに関心を持っていると思われるような記述も散見されるようになる。アンネとペーターの関係は二人の両親初め他の隠れ家メンバーにも公然となっていたようだ。
しかし1944年8月4日、アンネとペーターの関係は唐突に終わりを告げた。カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長率いるナチス・ドイツの警察部隊がアンネたちの隠れ家に踏み込んだためであった。ペーターとアンネは、家族もろとも親衛隊(SS)に拘束された。9月には隠れ家の全員がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られた。10月にはペーターの父ヘルマンがガス室送りにされたが、ペーターは、1945年1月16日にマウトハウゼン強制収容所へ移されることとなった。マウトハウゼンへは「死の行進」をさせられた。どうにかしてマウトハウゼンには到着したペーターだったが、収容所の過酷な環境に生き抜くことはできず同地で死亡した。赤十字社報告によるとペーターが死んだのは1945年5月5日だったという。これはマウトハウゼン収容所がアメリカ軍によって解放される当日(解放3日前との記録もある)のことであった。
なお恋人のアンネは、1945年3月頃に不衛生なベルゲン・ベルゼン強制収容所においてチフスにより先立っていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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