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ホイットニーの脅迫問題(ホイットニーのきょうはくもんだい)とは、1946年2月13日、GHQ草案(マッカーサー草案)が日本側に手交された時、GHQ民政局長であるコートニー・ホイットニーが、「この草案を呑まなければ天皇を戦争犯罪裁判にかける」といったような重大な脅迫をして、GHQ草案を押し付けたのではないかという問題である〔高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、「序にかえて」ⅸ、ⅹ頁。この中で高柳は、日本国憲法の基礎になった案が日本側の案ではなく、GHQ草案であり、したがって、日本国民の意思のみによったものではないという意味で「押し付け憲法」というのなら何ら問題はない。しかし、「押し付け憲法」論争はこのようなものではなく、この案を日本政府が呑まなければ天皇を戦犯裁判にかける、といったような重大な脅迫によって、この案を日本政府に押し付けたのかどうかが争点であった、と述べている。また、最近(2015年)のものとしては、「識者が語る「私の"日本国憲法論"」【2】【憲法学者・古関彰一】『押し付け』説はどこから生まれたか?」も参照のこと 〕。 ==概説== 1946年2月13日は、『日本国憲法成立史』の著者佐藤達夫が「この日こそは、”日本国憲法受胎の日”とも言うべき歴史的な日である」〔佐藤達夫「日本国憲法成立史」〔2〕『ジュリスト』第82号(有斐閣)、1955年5月16日号、13頁。佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、47頁〕と言っているように、日本国憲法にとり特別な日であった。というのは、2月13日は、日本政府の予期に反し、GHQ草案を手交される日になってしまったからである。本来この日は、2月8日に、日本政府が 連合国総司令部(GHQ)に渡しておいた「憲法改正要綱」(松本甲案)とその説明書の英訳への回答があるはずの日であった。 その日、GHQから回答を受けるため、外務大臣公邸に 吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官の4人が待機していた。そこへ、午前10時きっかりに、GHQ民政局長のホイットニー准将を先頭とする4人のアメリカ人-他にケーディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐-が訪れ、松本案への回答があるとばかり考えていた吉田ら4人に対し、ホイットニーは開口一番「日本案ハ全然受諾シ難キニ付自分ノ方ニテ案ヲ作成セリ」と述べ、GHQ草案を配ったのである〔古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)2009年、151頁〕。 その後、ホイットニーは日本側に検討する時間を与え、一読した松本は「貴案ハ我方ノ考ト余ニ懸離レ居ル為」「充分検討ノ上更ニ御相談致シ度シ」〔長谷川元吉の手記より。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179頁〕と述べた。次いで、ホイットニーの説明が開始された。日本側の記録によれば、ホイットニーは、本案は日本側に押し付ける考えはないが、マッカーサー元帥が米国内部の反対を押し切り、天皇を擁護するためにこれならば大丈夫と思う案を作ったものであり、しかも日本民衆の意識にも合致したものだと述べた〔長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179頁〕。説明の後、松本は一つだけ質問したいと言い、通訳を介して〔 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、329頁〕憲法案が一院制を定めているのは何か特別の理由があるかと尋ねた〔江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁〕。すると、ホイットニーから「日本には米国のように州がない。従って上院を認める必要はない」という返答があった。その理由の単純さに驚いた松本が、二院制の由来やチェック・アンド・バランスの意義をごく簡単に説明した。すると、アメリカ人たちは初めて知ったような顔で、「うんうんというような顔をしてみんなただ感服していた」〔東京大学占領体制研究会『松本烝治氏に聞く』(憲法調査会事務局)1960年、28、9頁。なお、これは1950年11月23日に採録したものである。〕。松本はその様子にただ驚き、そして「こういう人のつくった憲法だったら大変だ」と思った〔松本烝治『日本国憲法の草案について』(自由党憲法調査会)1954年9月、12、3頁〕。一院制についてのやり取りのあと、更にホイットニーは、改正案はあくまでも日本側の発意に出たものとして発表されるのが望ましく、時期は総選挙前に発表するのが適当だと述べた〔長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁〕。会談は、GHQ側の記録によれば午前11時10分に〔 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、333頁〕、日本側の記録によれば午前11時30分に〔長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁〕終了している。 この日の会談(以下「2・13会談」ということがある)の記録として、今日、日本側3、アメリカ側1の計4つの記録が知られている。日本側は松本烝治 、白洲次郎「白洲次郎手記」〔江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180-181頁〕、長谷川元吉「二十一年二月十三日ノ日米会談録」〔江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179-180頁〕、アメリカ側は、ケーディス、ラウエル、ハッシーが連名で書きホイットニー宛てに報告した長いタイトルの記録〔これには、「1946年2月13日最高司令官に代わり〔ホイットニー民政局長が〕外務大臣吉田茂氏に新しい日本国憲法草案を手交した際の出来事の記録」というタイトルがついている。 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、323-333頁〕である。つまり、2・13会談の当事者8人のうち7人の手になる計4つの記録が知られている。吉田茂の記録だけは知られていない。しかし、後に高柳賢三をとおし証言を残している。これらの記録の内容は大きく矛盾しないが、松本の記録だけにあり、他の記録にはない記述がある。それがホイットニーの脅迫問題の発端となっている。 以下にホイットニーの脅迫問題の経緯を辿るが、その時注意しなければならないのは、松本の記録や証言だけは早期から流布した一方、それ以外の記録が世に出たのは、1946年のGHQ草案の手交から数えて、はるか後だったという事実である。アメリカ側の記録が翻訳公表されたのは、GHQ草案手交から20年後の1966年のことであった〔高柳賢三・田中英夫 (法学者)「ラウエル所蔵文書」〔連載第21回〕『ジュリスト』第357号(有斐閣)1966年11月1日号、85-85頁〕。それが、一般書となって世に出るのは、26年後の1972年のことである〔この書は、高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I及びII(有斐閣)1972年である〕。また、白洲と長谷川の記録が外務省により公開されたのは、GHQ草案の手交から数えて30年後の1976年のことであった〔1976年5月1日の第1回「外務省外交記録公開」のうち「帝国憲法改正関係一件(研究資料)」。ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」(上)(『法律時報』65巻6号)1993年5月号、36頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホイットニーの脅迫問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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