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ホウセイは日本の競走馬。障害競走の連勝記録となる13連勝を達成し、アラブ系抽籤馬としては史上唯一中山大障碍で連対した。 == 経歴 == 馬齢は旧表記とする。 1948年10月25日、中山競馬場のBアラブ系4歳新馬で初出走して6頭立ての5着。同年は5戦して3着が1回と振るわなかった。しかし5歳となった1949年は3月に初勝利を挙げ、7月にオープンのハンデ戦に勝つなど20戦8勝を記録。年末に西下して阪神競馬場のアラブ東西対抗に出走し、関西馬タマツバキに次ぐ2番人気に推されたが、ここは10頭立ての7着に敗れた。 1950年は年明けから4連勝を達成、その後も5月28日のアラブ系オープンで68キログラムの斤量を背負って勝ち、6月10日のアラブ東西対抗では6番人気のミネノヒカリに敗れて2着となったが、3着のタマツバキ、4着のニユーバラツケーには先着した〔斤量はミネノヒカリ、ホウセイ、タマツバキが62キログラム、4歳馬のニユーバラツケーは56キログラムだった。〕。翌週のアラブ系オープンに71キログラムの斤量で出走し12キログラム軽いオシヨロに敗れると秋シーズンまで休養。増え続ける斤量を考慮して障害競走に転向した。 10月1日、中山のアラブ系障碍オープン〔当時は制限競走がほとんど行われていない。〕で障害初出走を迎えた。この競走で2着のマサキに大差で勝利すると、続くハンデ戦のアラブ系障碍特別では2戦目ながら70キログラムの斤量を背負って10馬身差の圧勝をした。その後1か月あまりは定量改定により斤量が緩和されたため平地競走に戻り5戦2勝。66キログラムと67キログラムで勝利した。そして12月の中山開催から障害レースに復帰して勝利すると、2戦目でサラ系(サラブレッド系の略)を相手に中山大障碍に出走した。ここではアラブ系ながらマルヒカリに次ぐ2番人気となったが、レースでは終始後方のまま8頭立ての4着に敗れた〔マイホープが大土塁、クリツバメとヤシマランナーは最終障害でそれぞれ転倒して競走を中止したため入線したのは5頭。〕。 そして12月24日にふたたびアラブ系障害に戻るとここから連勝を開始。1月のアラブ系障碍特別で76キログラムを背負って勝利するなど翌1951年10月23日のアラブ系障碍優勝まで13連勝、アラブ系障害のみでは無敗の16連勝を達成した。そして11月よりふたたびサラブレッド相手に競走を行い、すべての競走でもっとも重い斤量を背負いながらも〔4戦のうち3戦はハンデ戦。3戦目のみ一般戦で67キログラムを背負ったが、これはアラブ系障害とサラ系障害では賞金を区別しないため。ただし、サラ系競走はアラブ系競走に比べて賞金が高く、それに伴ってサラ系の方が収得賞金による負担重量増が緩やかであるためアラブ系障害ほどの斤量を背負うことはない。〕3着、2着、2着、5着という成績を残して5戦目で中山大障碍に出走した。この年の大障碍は5頭立てで行われ、牝馬のミツタヱが1番人気、それにトヨタカ、ユウホウの順に続き、ホウセイは4番人気で出走。前年同様トヨタカが大逃げを打ったが、レース後半に入って大土塁で躓くとミツタヱが追撃して向こう正面で先頭に立った。ホウセイも早めに仕掛けて直線入り口でミツタヱに並び、いったんは先頭に立ったものの、ゴール手前で一気に引き離されて5馬身差の2着に敗れた。 その後12月23日の勝入ハンデで2頭立ての2着に敗れ、翌1月5日はふたたびアラブ系障害に出走。77キログラムを背負っての出走だったが65キログラムのマルマツにアタマ差敗北しアラブ系障害での無敗記録がストップ。その後は出走することなく同年3月25日に登録を抹消して種牡馬となったが、目立った産駒が出ることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホウセイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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