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ホウ煖 : ウィキペディア日本語版
ホウ煖[ほう けん]

龐 煖(ほう けん、紀元前4世紀末-紀元前3世紀半ば)は、中国戦国時代将軍道家(思弁的哲学者)・縦横家(弁論家)・兵家(軍事思想家)。龐 煥(ほう かん)あるいは龐子(ほうし、「龐先生」の意)とも〔『鶡冠子』「近迭」「度万」「 王鈇」「兵政」「学問」「世賢」「武霊王」〕。道家思想を修め〔、縦横家および兵家としての著作をそれぞれ執筆し〔中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」 〕、悼襄王のもと名将廉頗出奔後の趙の筆頭将軍として合従軍を指揮する〔中國哲學書電子化計劃『史記』「趙世家」 趙悼襄王四年「四年,龐煖將趙、楚、魏、燕之銳師,攻秦蕞,不拔;移攻齊,取饒安。」〕など、文武に優れた才人であった。
== 経歴 ==

=== 志学 ===
若い頃は、の深い山奥で、道家の隠者である鶡冠子(かつかんし、「ヤマドリの羽根の冠をつけた先生」の意)のもと学問を学んだ〔陸佃『鶡冠子序』「鶡冠子楚人也居於深山以鶡冠號曰鶡冠子」〕。師や王侯との対話が道家の書『鶡冠子』全十九篇のうち七篇に収録されている〔。道家出身ではあるが、若年の頃から軍事に強い興味を持っていたようであり、師への質問も天と武の関係を問うものが多い〔『鶡冠子』「近迭」「度万」「 王鈇」「兵政」〕。
また、趙人の劇辛が燕昭王(在位紀元前312-279年)に仕える以前、親しくしていた。劇辛からは人となりを「与し易きのみ」(とても親しみやすい)と評され、縦横家としての著書も執筆するなど、弁舌に長けていた。〔〔中國哲學書電子化計劃『史記』「燕召公世家 」今王喜十二年 「十二年,趙使李牧攻燕,拔武遂、方城。劇辛故居趙,與龐煖善,已而亡走燕。燕見趙數困于秦,而廉頗去,令龐煖將也,欲因趙獘攻之。問劇辛,辛曰:「龐煖易與耳。」燕使劇辛將擊趙,趙使龐煖擊之,取燕軍二萬,殺劇辛。」〕
あるとき、趙の武霊王(在位紀元前326年-298年)に召しだされ、「戦わずして勝つ者こそ最善である」という孫子の兵法について意見を問われて、兵家と道家の両方の知識を用いて解説を行っている〔『鶡冠子』「武霊王」〕〔この一篇だけ龐煥(ほうかん)という名前が用いられており、宋の陸佃は龐煖の誤字という説と、龐煖の兄という説を載せている(陸佃注「或作煖。」「龐煥。蓋煖之兄。」)。〕。龐煖の会見との前後は不明だが、実際に武霊王は考えなしに攻めるのではなく、他国の後継者争いに介入したり、胡服騎射という軍制改革を行ったりすることで、趙を軍事大国としている。『鶡冠子』武霊王篇に見られる弁論は以下の様なものである〔。
武霊王「余が流言飛語に聞くところでは、『百戦して勝つは善の善なるものにあらず、戦わずして勝つこそ善の善なるものなり』などという(『孫子』にもほぼ同一の文があるが、武霊王はこれを風聞の類として扱っている)。その解釈をお聞きかせ頂きたい」
龐煖「巧みな者は戦争に与しないことを貴ぶので、『計謀』を大いに上策として用いるのでございます。その次が『人事』に因ることです。そして下策が『戦克』です。
いわゆる『計謀』を用いるとは、敵国の君主を眩惑し、習俗を淫猥に変更させ、慎ましさを捨て驕って欲望のままにさせることです。そうすれば聖人のことわりは無くなります。人をえこひいきして親しくし、功績がないのに爵位を与え、勤労がないのに賞与を与え、機嫌のいい時は勝手に罪を許し、怒れば根拠なく人を殺し、民を法律で縛っておいて自らは慎ましやかな人間だとうそぶき、小人なのに自らを徳の至った者と見なし、無用の長物を頻繁に用い、亀甲占いに没頭し、高徳の道義というものが意中の人(を贔屓すること)よりも下になります。
いわゆる『人事』に因るとは、(賄賂として)幣帛をつらね貨財を用いて繰り返し側近の口をおさえ、そうであるという所を全くそうではない、そうではないところを全くそうであると言わせ、君主から離反する際にも忠臣の道を用いさせることです。
いわゆる『戦克』(戦って勝つ)というのは、もとから既に衰えきった国に、軍隊が進行して攻めるものです。越王句践はこれを用いて呉を亡ぼし、楚はこれを用いてをことごとく平らげ、(趙・魏・韓の)三家はこれを用いて(政敵の)智氏を亡ぼし、韓(韓宣子)はこれを用いて東方にある(政敵の祁氏・羊舌氏の)地を切り分けました。
今、世間の者たちは軍事について、『すべて、強大な国が必ず勝ち、小弱な国は必ず滅ぶ。だから小国の君は覇王者になれないし、万乗の主(一万の戦車を持つ大君主)は滅びない』などと主張します。しかし、かつて夏は広くて湯王の殷は狭く、殷は大きくて周は小さく、越は強くて呉は弱かったものでした(が、小国のはずの後者が大国の前者に勝ちました)。これがいわゆる(孫子兵法に言う)『戦わずして勝つは善の善なる者なり』であり、また(道家思想に言う)『陰経の法〔道家の伝説的開祖である黄帝に仮託される経典(陸佃注「陰経。黄帝之書也。」)。〕・夜行の道〔龐煖の師である鶡冠子の論の一つ(『鶡冠子』「夜行」)。事物の本質は決まった形を取らず、玄妙なものであるとする。『管子』「形勢解」では「いわゆる夜行は心行なり(所謂夜行者心行也)」と言う。〕・天武の類〔龐煖は『鶡冠子』の中の四篇に渡って、天と武の関係性を師と議論している(『鶡冠子』「近迭」「度万」「 王鈇」「兵政」)。その多くは観念的・抽象的で難解。〕』でございます。
現在、百万の屍が散乱し、流血は千里に及び、しかもなお勝利はいまだ決しておりません。軍功があっても、計略が常にまだ及ばないのです。このゆえに聖人は昭然として(明白に)独り思索し、欣然として(楽しげに)独り喜ぶのです。(ところが今の人は)ひとたび耳に金鼓の音が聞こえたならば武功を希み、旌旗(のぼりばた)の色を見れば軍陣を希み、軍刀の柄を手に握りしめれば戦を希み、出征し闘い合えば勝利を希みますが、これこそが主君を襄(たす)けることで(かえって主君を)破れ亡ぼす理由なのです〔原文「是襄主之所破亡也」。あるいは「これこそが(一時は天下に覇を称えた)宋の襄公が破れて亡んだ理由なのです」か。〕」
武霊王は深く思い嘆いて言った。「国家の存亡は我が身にあるというのか。なんと幽微なことよ、福の生じる所とは!  余はこれを聞いて、日月の巡るたび自ら内省するとしよう。いにしえは徳を修めた者は命を偽らず、要点を得た者はその口数は多くはなかったのだ」

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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