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ホジャー・グレイシー : ミニ英和和英辞書
ホジャー・グレイシー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ホジャー・グレイシー : ウィキペディア日本語版
ホジャー・グレイシー[ちょうおん]

ホジャー・グレイシーRoger Gracie1981年9月26日 - )は、ブラジル男性柔術家総合格闘家リオデジャネイロ州出身。イギリスロンドン在住。ブラック・ハウス所属。ホジャー・グレイシー柔術アカデミー主宰。ブラジリアン柔術三段。
グレイシー柔術の始祖カーロス・グレイシーの娘、ヘイラ・グレイシーを母親に持つ。父親はブラジリアン柔術家のマウリシオ・ゴメス。
世界柔術選手権(ムンジアル)、パンアメリカン選手権、ブラジル選手権、アブダビコンバットなど、数々の大会で優勝経験を持つ。シャンジ・ヒベイロとともに技術革新やルールの変更などによりポイント重視が顕著になった柔術界において、十字締めという古典的な技を得意とするなどオーソドックスな柔術の有効性を証明し続けている。黒帯になってからはグラップリングを含めた大会を通して一本負けの経験がなく、トップクラスの柔術家の中でも一本勝ちが非常に多く2009年の世界選手権では階級、無差別級の全試合で一本勝ちを収め2005年のアブダビコンバットでは8試合中7試合が一本勝ちであった。〔http://www.bjjheroes.com/bjj-fighters/roger-gracie-bio〕
== 来歴 ==
ホーウス・グレイシーの黒帯である父親マウリシオの影響もあり、幼少期より柔術に親しんだ。15歳でリオデジャネイロを離れサンタカタリーナ州で従兄弟達と練習を積む中で、「ファイターになり、絶対に負けない」と決意した〔『ゴング格闘技』No.170、2006年〕。2002年のムンジアル茶帯無差別級でホナウド・ジャカレイを破って優勝し、黒帯を授与された。2003年にはイギリスで柔術普及に努めていた父親とともに、ロンドンで「ホジャー・グレイシー柔術アカデミー」を開いた。
2003年5月、アブダビコンバット99kg未満級において、1回戦で1998年の無差別級王者マリオ・スペーヒーに勝利するも、準決勝でユノラフ・エイネモにバックを奪われ敗退。3位決定戦ではシャンジ・ヒベイロに勝利した。
2003年7月、黒帯初のムンジアルではアブソルート(無差別)級にエントリー、決勝まで勝ち進むも、同門のマーシオ・クルーズに敗れ、準優勝に終わる。
2003年10月5日、PRIDE 武士道で行なわれた「日本vsグレイシー 5対5対抗戦」にセコンドとして来日。PRIDE参戦を希望していたが、PRIDEが消滅したために実現には至らず。
2004年7月のムンジアルでスペルペサード(-97kg)級で優勝を果たした。アブソルート級では決勝でジャカレイと再戦、リードを許した後腕ひしぎ十字固めでジャカレイの肘を脱臼させながら、最後は組み手を避けるジャカレイにポイント差で逃げ切られ、またも準優勝に終わった。ホジャーはこの結果について、レフェリーのミスジャッジと主張した〔。
2005年5月、アブダビコンバット99kg未満級において優勝を果たし、無差別級では青木真也ファブリシオ・ヴェウドゥム、シャンジ、ジャカレイから全て一本勝ちし優勝を果たし、モスト・テクニカル・ファイター賞も受賞した。
2005年7月、ムンジアルでスペルペサード級を連覇、アブソルート級決勝では前年と同じ組み合わせとなった。試合はジャカレイに終了間際にテイクダウンを奪われ、3年連続で準優勝となった。
2006年4月、パンアメリカン柔術選手権(パンナム)に出場、スペルペサード級ではシャンジに敗れて準優勝であったが、同じ組み合わせだったアブソルート級決勝でシャンジに三角絞めを決め、リベンジを果たした〔『ゴング格闘技』No.169、2006年〕。
2006年7月、ムンジアルでスペルペサード級を3連覇を達成。アブソルート級決勝でのシャンジ戦ではポイントでリードしながら終盤にテイクダウンで逆転を許し、4度目の準優勝となった〔『ゴング格闘技』No.173、2006年〕。
2006年12月2日、カナダで開催されたBodogFight総合格闘技デビューし、ロン・ウォーターマンと対戦。グラウンドに引き込んで、試合をコントロールし、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。なお、この試合は11月4日にドン・フライと対戦予定であったが、大会自体が延期になり、対戦相手も変更となった。
2007年5月6日、アブダビコンバットのスーパーファイトでユノラフ・エイネモと対戦、5-0で判定勝ち。
2007年8月、ムンジアルのアブソルート級で決勝で同門のホムロ・バハルに送り襟絞めで勝利し、黒帯無差別級で初優勝、5年越しの悲願を達成した。元々バハルは同門対決を避け勝利を譲ろうとしたが、ホジャーが「無差別級の優勝者は闘って決められるべきだ」と説得し、本気の勝負が行なわれた〔ホジャーが悲願の無差別級制覇を達成! 黒帯ガロ級で本間祐輔が準優勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年8月28日〕。またスペルペサード級でも4連覇を達成した。
2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜の会場にて戦極 〜第二陣〜への参戦が発表された。
2008年5月18日、戦極 〜第二陣〜近藤有己と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。
2008年6月、ムンジアルに出場。階級を上げたペサディシモ(+97kg)級では優勝を果たすも、アブソルート級ではシャンジに破れ、5度目の準優勝となった。
2008年9月28日、戦極 〜第五陣〜トラビス・ビューと対戦予定であったが、肋間筋損傷により9月22日に欠場が発表された。正式な診断書などが提出されないなどの経緯などを踏まえ戦極は厳重な処罰なども検討した〔「戦極〜第五陣〜」ホジャー・グレイシー選手欠場のお知らせ SRC 公式サイト 2008年9月22日〕。
2009年6月、ムンジアルに出場。スペルペサード級とアブソルート級の両階級で優勝を果たした。
2009年11月20日のShoMMA: Strikeforce Challengersに参戦予定であったが、欠場となった〔【SHOMMA】デルロザリオ劇的一本、カン・リーも復帰へ MMAPLANET 2009年11月7日〕。
2010年5月15日、Strikeforce初参戦となったStrikeforce: Heavy Artilleryにて、ケビン・ランデルマンと対戦。首相撲からの膝蹴りでダウンを奪うなど課題であった打撃面でも成長を見せ、最後はチョークスリーパーで一本勝ちを収めた〔【Strikeforce】快勝ホジャー「グレイシーを代表して戦う」 MMAPLANET 2010年5月16日〕。
2011年1月29日、Strikeforce: Diaz vs. Cyborgトレヴァー・プラングリーと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち〔【Strikeforce】“一族の砦”ホジャー、チョークで完勝 MMAPLANET 2011年1月30日〕。総合格闘技4連勝となった。
2013年7月6日、UFC初参戦となったUFC 162ティム・ケネディと対戦し、0-3の判定負けを喫した。試合後、MMA引退を示唆した。
2014年12月5日、MMA引退を撤回し、初参戦となったONE FC 23でジェームス・マクスウィーニーと対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホジャー・グレイシー」の詳細全文を読む




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