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ホセ・マリーア・アレイルサ : ミニ英和和英辞書
ホセ・マリーア・アレイルサ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ホセ・マリーア・アレイルサ ( リダイレクト:ホセ・マリア・デ・アレイルサ ) : ウィキペディア日本語版
ホセ・マリア・デ・アレイルサ[ちょうおん]

ホセ・マリア・デ・アレイルサ・イ・マルティネス=ロダス(, 1909年8月3日1998年2月22日)は、スペインビスカヤ県ポルトゥガレテ出身の政治家・エンジニア・外交官。1975年から1976年には外務大臣を務めた。
== 経歴 ==

=== フランコ体制下 ===
アレイルサ家はスペイン・バスクにおけるブルジョアの中心的な家庭だった〔渡部哲郎『バスクとバスク人』平凡社、2004年〕。父親のエンリケ・デ・アレイルサ・アレギは外科医であり、バスルトゴルリスなど複数の自治体における病院の設立者でもあった。1909年、ホセ・マリア・デ・アレイルサはビルバオ郊外のポルトゥガレテに生まれ、サラマンカ大学で法学を、ビルバオ高等工科学校(バスク大学の前身のひとつ)で産業工学を学んだ。スペイン内戦中の1937年6月には、フランシスコ・フランコを中心とする反乱軍によってビルバオが占領されたが、27歳のアレイルサは7月21日に反乱軍によってビルバオ市長に任命され、声明でホセ・アントニオ・アギーレを非難した〔ポール・プレストン『スペイン内戦 包囲された共和国 1936-1939』宮下峰夫 訳, 明石書店, 2009年、p.321〕。1938年2月24日まで市長を務めている。スペイン主義とバスク地方意識の強い政治家であり、内戦後にはバスク地方がスペイン経済の支柱となるように務めた〔。内戦終結後には長らく外交官を務め、1947年から1950年には在アルゼンチン・スペイン大使としてブエノスアイレスで、1954年から1960年には在アメリカ合衆国・スペイン大使としてワシントンD.C.で、1960年から1964年には在フランス・スペイン大使としてパリで勤務した。フアン・カルロス1世の父であるバルセロナ伯フアンの政治秘書官を務めたこともあった〔碇順治『スペイン 静かなる革命 フランコから民主へ』彩流社, 1990年, 89-96〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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