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ホセ・デ・ラ・カリダド・メンデス・バエス(José de la Caridad Méndez Baez , 1887年3月19日 - 1928年10月31日)は、キューバのマタンサス州カルデナス出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。愛称は黒いダイヤの意味である"El Diamante Negro"(エル・ディアマンテ・ネグロ)。 == 経歴 == -シーズンにキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"のアラクラネス・デル・アルメンダレスでプロ野球選手としてのキャリアを始めた。初年度から無敗の9連勝を記録してキューバリーグを代表する主戦級投手として活躍し、チームもリーグ優勝を果たした。 1908年の夏にアメリカ合衆国へ渡り、ニグロリーグのブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツに所属して3連勝する。同年秋にメジャーリーグベースボールのシンシナティ・レッズがキューバを訪れたが、メンデスはレッズを相手に3試合に登板して計25回を無失点に抑える投球を見せた。その後もキューバを訪れたメジャーリーグのチームとの親善試合にたびたび登板し、通算では5割近い勝率を残した。 に当時J.L.ウィルキンソンが所有していたオールネイションズへ移籍した。 ジョー・ウィリアムズ、ルーブ・フォスターとともに当時のニグロリーグを代表する投手だったが、シーズン後半には右腕の負傷から遊撃手に転向した。 遊撃手としても活躍し、にニグロナショナルリーグのカンザスシティ・モナークスへ移籍するまでの間、いくつかのニグロリーグのチームに所属してプレーしていた。 はモナークスの選手兼任監督として、初年でチームをリーグ優勝に導いた。徐々に投手として復活し、この年には12勝4敗の成績を残した。 にはイースタン・カラードリーグの優勝チーム、ヒルデール・デイジーズとのニグロリーグ・ワールドシリーズに4試合登板し、完封を含む2勝を挙げる活躍。チームもニグロリーグ・ワールドチャンピオンに輝いた。この頃はアメリカのリーグがオフになる冬季はキューバに戻り、キューバリーグでも投手として出場していた。 は投手としては結果を残せずに苦しんだが、監督としてモナークスをニグロ・ナショナルリーグ3連覇に導いた。 にニグロリーグを離れ、キューバに戻った。 1月21日にキューバで生涯最後の勝利を挙げた。キューバリーグ歴代最高の通算勝率.731(76勝28敗)の記録を保持している。 引退してから2年足らずの1928年10月31日にハバナで気管支肺炎のため、死去。。 にキューバ野球殿堂入りを果たした。 にニグロリーグ特別委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホセ・メンデス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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