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『HOSONO HOUSE』(ホソノ・ハウス)は、1973年5月25日に発売された細野晴臣通算1作目のスタジオ・アルバム。 == 解説 == はっぴいえんど解散直前の1972年末、細野晴臣は鈴木茂、松任谷正隆、林立夫と“キャラメル・ママ”を結成した。鈴木ははっぴいえんどでの同僚、松任谷と林は小坂忠とフォー・ジョー・ハーフのメンバーだった。細野、鈴木、林は60年代にもバンド活動を共にしたことがあった。本作はキャラメル・ママにとって初のレコーディングだったが、アルバムにはまだキャラメル・ママの名前はクレジットされていない。 アルバム・レコーディングは埼玉県狭山市の稲荷山公園の近くにある通称アメリカ村の細野の自宅で行われた。自宅でのレコーディングはザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』〔The Band『Music from Big Pink』 Released in July 1, 1968 Capitol LP:SKA02955〕やジェームス・テイラー『ワン・マン・ドッグ』〔James Taylor『One Man Dog』 Released in November 1, 1972 Warner Bros. LP:BS 2660〕など、アメリカのアーティストのホーム・レコーディングに刺激されたのがきっかけだった。この頃、フリーのエンジニアが登場してきて、都心のレコーディング・スタジオ以外の場所でも高音質のレコーディングが可能になり、エンジニア吉野金次にとっても、本作のレコーディングが独立後初の仕事だった。都心への通勤には少し不便だが、広さの割には安いことから、時間にそれほど縛りの無い自営業の人たちに人気があり、細野は72年の秋に狭山に移り住んだ。前後して小坂や西岡恭蔵といったミュージシャン、イラストレーター鈴木康司、デザイナー集団“WORK SHOP MU!!”のメンバーたちもその住人となった。レコーディングにあたっては、リビング・ルームにシグマ社製16トラックのミキシング・コンソールが置かれ、演奏には8畳ほどのベッド・ルームが使われた。アンプから直接録るライン録音ではなく、生音を重視して狭い部屋での演奏を録音したため、音の回り込みが本作特有のサウンドを生む結果となった。レコーディングは毎日午後に5時間ほど行われ、3日に1日休むペースで進み、2月15日から3月16日までの約1か月で終了した。 本作の背景にある体験について、後に細野は「狭山に長くいるうちに幻想の世界に住んでいるというのがだんだんわかってきたんです。つまり、ヒッピー・ブームの中で、音楽的なブームとしてカントリーに移行していって、なんかわからないままコミューンみたいなのを作ってね、現実にはあり得ないようなアメリカ村みたいなとこに住んで、まわりにはミュージシャンとかアーティストが住んで、ニュー・ファミリーみたいなのを結成したりしてね。ほんわかした中で生活していたのが、だんだん崩壊しつつあったんですね。そういう不安感というのはありました。もう一度現実に戻って、都会に戻らなきゃいけないというのは」(細野晴臣著 北中正和編『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』1992年3月5日出版 筑摩書房 p73)と語っている〔。 オリジナルLPは帯がなく、中袋にSPレコード時代を思わせるハトロン紙が使われ、歌詞カードは小さなブックレット形式という体裁だった。アート・ディレクションについて、写真家の野上眞宏は「『HOSONO HOUSE』の時は、シンプルにしようって、細野君の顔のアップの写真でということになった。表は地味にして、裏側はピンクにするっていう案もあったんだけど、結局、黒になったんだよね。中に小さいブックレットが入って、レーベルもすごくしゃれてて、トータルデザインとしてもすごくかっこよかった」と語っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「HOSONO HOUSE」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hosono House 」があります。 スポンサード リンク
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