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ホメーロス(、、)は、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。ホメロスとも。西洋文学最初期の2つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられている。「ホメーロス」という語は「人質」、もしくは「付き従うことを義務付けられた者」を意味する〔 〕。古代人はホメーロスを「詩人」( ラテン表記:''ho Poiêtếs'')というシンプルな異名で呼んでいた。 今日でもなお、ホメーロスが実在したのかそれとも作り上げられた人物だったのか、また本当に2つの叙事詩の作者であったのかを断ずるのは難しい。それでも、イオニアの多くの都市(キオス、スミルナ、コロポーンなど)がこのアオイドスの出身地の座を争っており、また伝承ではしばしばホメーロスは盲目であったとされ、人格的な個性が与えられている。しかし、彼が実在の人物であったとしても、生きていた時代はいつ頃なのかも定まっていない。もっとも信じられている伝説では、紀元前8世紀とされている。また、その出生についても、女神カリオペの子であるという説や私生児であったという説などがありはっきりしない。さらに、彼は、キュクラデス諸島のイオス島で没したと伝承されている。〔フランソワ・トレモリエール、kトリーヌ・リシ編、樺山紘一監修『図説 世界史人物百科』Ⅰ古代ー中世 原書房 2004年 29ページ〕。 当時の叙事詩というジャンルを1人で代表するホメーロスが古代ギリシア文学に占める位置は極めて大きい。紀元前6世紀以降、『イーリアス』と『オデュッセイア』はホメーロスの作品と考えられるようになり、また叙事詩のパロディである『蛙鼠合戦』や、ホメーロス讃歌の作者とも見做されるようになった。主にイオニア方言などからなる混成的なは紀元前8世紀には既に古風なものであり、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。両叙事詩は(ダクテュロスのヘクサメトロス)で歌われており、ホメーロス言語はこの韻律と密接に結び付いている。 古代において、ホメーロスの作品に与えられていた史料としての価値は、今日では極めて低いものと見做されている。このことは同時に、西洋において叙事詩というジャンルを確立した文学的創造、詩としての価値をさらに高めた。無数の継承者が出現し、21世紀のハリウッドにまで続いている〔例えば、ウォルフガング・ペーターゼンの映画『トロイ』を見よ。〕。 == 伝記 == === 古代人から見たホメーロス === 伝承では、ホメーロスは、盲目であったとしている。第一に、『オデュッセイア』でトロイア戦争を歌うために登場するアオイドスのデーモドコスが盲目である――ムーサはデーモドコスから「目を取り去ったが、甘美な歌を与えた」〔『オデュッセイア』VIII, 63-64.〕。第二に、『ホメーロス讃歌』のデロス島のアポローン讃歌の作者が自分自身について「石ころだらけのキオスに住む盲人」〔« », vers 172. 讃歌は、紀元前7世紀中葉から紀元前6世紀初頭の間に作られたものである。〕と語っている。この一節はトゥキディデスが、ホメーロスが自分自身について語った部分として引用している〔『戦史』 III, 104.〕。 「盲目の吟遊詩人」というイメージは、ギリシア文学の紋切り型であった。の弁論の登場人物の一人は、「これらの詩人たちは全て盲目であり、彼らは盲目であることなしに詩人となることは不可能だと信じていた」と指摘した。ディオンは、詩人たちがこの特殊性を一種の眼病のようにして伝えていったと答えている〔Dion Chrysostome, ''Discours'', XXXVI, 10-11.〕。事実、抒情詩人ロクリスのクセノクリトスは、生まれつき盲目だったとされている〔''FHG'' II, 221.〕。は、ムーサイの象徴である蜜蜂に刺されて盲目となった〔Snell, ''TrGF'' I 20 Achaeus I, T 3a+b.〕。ステシコロスは、ヘレネーを貶したために視力を失った〔Platon, ''Phèdre'', 243a.〕。デモクリトスは、より良く見るために自ら失明した〔Diels, II, 88-89.〕。 全ての詩人が盲目だったわけではないが、盲目は頻繁に詩と結び付けられる。マーチン・P・ニルソンは、スラヴの一部地域では、吟遊詩人は儀礼的に「盲目」として扱われていると指摘している〔M. P. Nilsson, ''Homer and Mycenæ'', Londres, 1933 p.201.〕――アリストテレスが既に主張していたように〔Aristote, ''Éthique à Eudème'', 1248b.〕、視力の喪失は記憶力を高めると考えられる。加えて、ギリシアでは非常に頻繁に、盲目と予知能力を結び付けて考えた。テイレシアース、メッセネの、アポロニアの、 ピネハスといった予言者たちは皆盲目であった。より散文的には、アオイドスは古代ギリシアのような社会で盲人が就けた数少ない職業の1つだった〔R. G. A. Buxton, « Blindness and Limits: Sophokles and the Logic of Myth », ''JHS'' 100 (1980), p.29 [22-37.〕。 イオニアの多くの都市(キオス、スミルナ、コロポーンなど)がホメーロスの出身地の座を争っている。『デロス島のアポローン讃歌』ではキオスに言及しており、シモーニデースは〔Simonide, frag. 19 W² = Stobée, ''Florilège'', s.v. .〕『イーリアス』の最も有名な詩行の1つ「人の生まれなどというのは木の葉の生まれと同じようなもの」〔イーリアス(VI, 146).〕を「キオスの男」のものであるとしており、この詩行は古典時代の諺ともなった。ルキアノス(120-180頃)は、ホメーロスを人質としてギリシアへ送られたバビロン人だとした(は「人質」を意味する)〔Lucien, ''Histoire vraie'' (II, 20).〕。128年に、ハドリアヌス帝にこの件を問われたデルポイの神託は、ホメーロスはイタケーの生まれでテーレマコスとの息子であると答えた〔『』(XIV, 102).〕。碩学の哲学者(412-485)は著書『ホメーロスの生涯』において、ホメーロスはなによりもまず「世界市民」であったと、この論争を結論づけた。 実際のところ、ホメーロスの生涯については分かっていない。8つの古代の伝記が伝わっており、これらは誤ってプルタルコスとヘロドトスの作とされている。これは恐らくギリシアの伝記作者の「空白恐怖」によって説明されうる〔Kirk, p.1.〕。これらの伝記のうち最も古いものはヘレニズム時代に遡り、貴重だが信憑性に乏しい詳細に満ちており、そうした詳細のうちには古典時代からのものも含まれている。それらによるとホメーロスはスミルナで生まれ、キオスに暮らし、キクラデス諸島のイオス島で死んだことになる。本名はメレシゲネス――父はメレス川の神、母はニュンペーのクレテイスであった〔『』によれば、メレスとクレテイスの物語は紀元前5世紀には既にが疑問視していたという。の『』にもこの話が現れる。([http://remacle.org/bloodwolf/erudits/philostrate/images.htm 『Images』のフランス語訳])〕。また同時に、ホメーロスはオルペウスの子孫、従弟、もしくは単なる同時代の音楽家であったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホメーロス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Homer 」があります。 スポンサード リンク
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