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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ゲイバーとは男性同性愛者のバーである。ニューハーフや女装家など女装をした男性・元男性が、主として一般の異性愛者に接客する女装バーと、女装をしない男性同性愛者(ゲイ)同士が集うバーの2つがある。厳密な定義はないが、現在のゲイバーは後者を指すことが多く、ホモバーとも呼ぶ。女装バーは「ニューハーフの店」と呼んでゲイバーとは区別するようになってきている。新宿2丁目にあるのは殆どがゲイバーであり、女装バーは少ない(後述)。 ゲイバーは世界中に存在しており、一つの大きな集合体としての街を形成している。本項では日本国内を対象とした内容で記述する。 === 歴史 === ''陰間茶屋、ゲイ・タウンとしての新宿二丁目も参照'' 江戸時代中期(元禄年間)頃には、陰間茶屋(上方では若衆茶屋)といわれる、今でいう売り専バーに近い形態のゲイバーがあった〔TBS系ゴロウ・デラックス「美輪明宏」(TBS系2012年8月23日放送)〕〔「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫社)P132「日本男色史」より。〕。また戦前は、昭和初年にはゲイバーやゲイクラブが出現していたとされる〔。 戦後初のゲイバー「やなぎ」 戦後初のゲイバーは1945年(昭和20年)、新橋の烏森神社参道に開店した島田正雄(通称:お島さん)が経営する「やなぎ」といわれ、比較的女装バーの色合いが強い店であった。この店は「青江のママ」こと青江忠一、「吉野のママ」こと吉野寿雄両人のような女装の名物ママを輩出したバーとしても知られる(後に銀座にゲイバーを開いた青江はカルーセル麻紀の師匠にあたり、同店では東郷健も働いていた。吉野は1963年に六本木にゲイバー「吉野」を開店する)〔「サービスの達隠花植物的人性」、クレア1991年2月号「ゲイルネッサンス91」P87(文藝春秋)〕。またやなぎには、江戸川乱歩、アラン・ドロン、ピエール・カルダン、イブ・サンローランなどの著名人も訪れていた。 「ブランスウィック」…「夜曲」… この後、1948年に、三島由紀夫の小説「禁色」に出てくるゲイ・バア「ルドン」のモデルとなるゲイ喫茶「ブランスウィック」も、銀座尾張町(現・5丁目)に開店する〔大作家と地方出の青年が出逢って 伊藤文学のひとりごと、2006年6月 1日〕〔武内佳代、お茶の水大学 F-GENSジャーナル、2007-09〕。同店には美輪明宏がボーイとして働いており、その時吉野は客として訪れている。時代は下るが、同じく三島の「肉体の学校」(1963年)には池袋「ヒアンシンス」というゲイ・バアが登場する。この作品は映画化もされているが、モデルとなる店があったか等については不明である。その他神田には1949年(昭和24年)に開店した「シルバー・ドラゴン」があり〔2006年11月11日伊藤文学のひとりごと「戦後のゲイバアをのぞく(1)」〕、新宿初のゲイバー「夜曲」(角筈)や、1951年には新宿三丁目に「イプセン」が開店している〔。美輪明宏が丸山明宏の著者名で出した「紫の履歴書」や、吉野寿雄の「サービスの達人」などがゲイバーについて詳しい。 現在 現在(2012年時点)は、新宿2丁目だけで約450軒のゲイバーが軒を連ねている(2012年7月3日産経新聞)〔産経新聞2012年7月3日配信「新宿2丁目最大のゲイバーグループ摘発」より。〕。因みに、バブルの頃の1991年4月24日号の「スパ!」には、「仲通りを中心に約300軒の飲み屋がひしめく」とあるが、産経の記事の根拠が「警視庁保安課によると」とあるのに対し、スパはどう数えたのかソースは明かされていない。単純に比較すると150軒増えていることになるが、実際のゲイバーの増減については未検証である。 1995年以降のインターネットの急激な普及で、出会いの場でもあったゲイバーに行く人が減っている。また2008年には新宿3丁目に副都心線新駅ができたことでミニバブルが発生し、不動産家賃の上昇に伴い経営難に陥るゲイバーが続出。異性愛者向け店舗やオフィスに業態転換する店が増えるなど、2丁目ゲイタウンの存続を危ぶむ声すら上がり始めている〔 『消える「新宿二丁目」―異端文化の花園の命脈を断つのは誰だ?』(彩流社、2009年)ISBN-13: 978-4779114106〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゲイバー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gay bar 」があります。 スポンサード リンク
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