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ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが〔ドーソン (1968)、p.154〕、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。 == 歴史 == === 建国から拡大の時代 === ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)、アヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする〔鳥井 (1993)、pp.190-191〕。アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した〔岩村 (2007)、p.169〕。 ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルターン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ・キタイ(西遼)を中央アジアに呼び寄せたという節もある〔井谷 (1968)、p.126〕。1141年、カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した〔ドーソン (1968)、p.154,p.332〕。1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。 1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。 テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権の要請に応じて〔井谷 (1968)、pp.127-128〕、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた〔ヒッティ (1983)、p.266〕。1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。 もともとホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民やキプチャクの力が大きな役割を果たした。テキシュの妻の一人であるテルケン・ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムハンマド(アラーウッディーン)が1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホラズム・シャー朝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Khwarazmian dynasty 」があります。 スポンサード リンク
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