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ホルヘ・オテイサ
ホルヘ・デ・オテイサ・エンビル(Jorge de Oteiza Enbil, 1908年10月21日 – 2003年4月9日)は、スペイン・ギプスコア県・出身〔の彫刻家・画家・デザイナー・著作家。バスク地方ではエドゥアルド・チリーダと並ぶ彫刻家であり、チリーダとともにスペイン内戦後のスペイン彫刻の出発点をなすとされる。バスクの現代美術についての主要な理論家のひとりとしても知られている。 == 経歴 == 1908年にギプスコア県・に生まれた。スペイン内戦の勃発直前の1935年に南米に移住し、1948年までボリビア、コロンビア、アルゼンチン、チリで14年間を過ごした。彫刻と美学の研究に没頭し、ブエノスアイレスの窯業学校で教えていたこともあった。1957年の第4回サンパウロ・ビエンナーレでは彫刻部門グランプリを受賞した。1963年には''Quosque tandem!''というエッセイを出版し、先史時代のバスクの芸術とバスク人の人類学的ルーツに基づいたバスクの魂固有の美学を語っている〔Oteiza; Zulaika (2003), p. 286〕。1970年にはサビエル・サンチョテナがオテイサに師事したが、サンチョテナはオテイサとは違って木材を素材に選んでいる〔バスク、アゴテ、ゲルニカ、フクシマ―サビエル・サンチョテナの作品と思想 友常勉、東京外国語大学〕。1975年からはナバーラ州・アルスサに住み続けた。熱心なバスク文化主義者であり〔、1990年代にはバスク芸術の伝統を侮辱するものだとしてビルバオ・グッゲンハイム美術館の建設に反対した〔京都外国語大学(2003)、p.153〕。自身の作品が美術館に展示されることを拒否し、1992年には自身の全作品群をナバーラ州政府に寄贈した〔萩尾ほか(2012)、p.317〕。オテイサに同調するバスク人芸術家は多かったが〔京都外国語大学(2003)、p.155〕、同じく彫刻家のエドゥアルド・チリーダは「美術館がバスク文化界に好影響をもたらす」と美術館の建設を評価した〔。 2003年、サン・セバスティアンで死去した〔。彼の意思により、アルスサに個人美術館のオテイサ美術館が開館した。このオテイサ美術館はオテイサの作品のみを収集したモノグラフの展示スペースであり、1,690点の彫刻作品、チョーク・ラボにあった2,000点の習作、膨大な量のデッサンやコラージュのコレクションを有する〔General Information オテイサ美術館〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホルヘ・オテイサ」の詳細全文を読む
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