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ホルヘ・ボレット
ホルヘ・ボレット(Jorge Bolet, 1914年11月15日 - 1990年10月16日)はピアニスト・指揮者である。〔平林直哉「ホルヘ・ボレット 心を奪われるふっくらとした音色 『自分の考えで弾く』ピアニスト」ONTOMO MOOK『ピアニスト名盤500』音楽之友社、1997年、108-108頁〕姓名の日本語表記は、一時フランス語読みの「ボレ」と表記されていたが、当人の出身地キューバの公用語であるスペイン語にもとづいて「ボレット」に表記が統一された。 == 来歴 == キューバのハバナに生まれ、フィラデルフィアのカーティス音楽学校にてレオポルド・ゴドフスキーとデヴィッド・サパートンに師事。卒業演奏ではショパンのピアノ・ソナタ第3番とゴドフスキーの『こうもり』によるパラフレーズを演奏した。学生時代の貴重な録音には、ブゾーニ版の『ラ・カンパネッラ』が収録されている。1939年から1942年まで母校カーティス音楽学校で教鞭を執るが、1942年に米軍に入隊し、GHQの一員として日本に派遣された。日本滞在中に、ギルバート&サリヴァンのオペレッタ『ミカド』の日本初演を指揮した。 ピアニストとして名声に恵まれるようになったのは、ようやく1970年代初頭になってからであり、カーネギーホールでの演奏によって評価を確かなものにした。ボレットは、ある批評家が述べたように、「長年の無視に傷ついていた」ものの、まさにあらん限りの能力を発揮した。その驚異的な演奏は、近年のフィリップス・レコードにおける「20世紀の偉大なるピアニスト」シリーズのCDでも確認することができる。後にルドルフ・ゼルキンの後任としてカーティス音楽院ピアノ科の主任教授を務めたが、やがてその地位から退き、再び演奏活動に取り組んだ。なおホルヘ・ボレットは作曲家フランツ・リストの孫弟子にあたる。1946年まで存命という、リストの弟子の中で特に長生きをしたモーリツ・ローゼンタールに師事したことによる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホルヘ・ボレット」の詳細全文を読む
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